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■天猜人誤(平成十二年五月十三日)
<<最近の少年犯罪と連合赤軍>>
ここ数年、少年や若い青年による凶悪犯罪が著しく増加している。しかも、普通の凶悪犯罪だけでなく、今までの常識から考えると「異常」としか思えない事件が連続した。そのほとんどが、現在15歳から25歳くらいまでの年齢だ。このくらいの世代の若者が起こした「異常」な犯罪といえば「連合赤軍」事件が思い出される。
連合赤軍は、昭和47年に浅間山荘事件で瓦解する直前に、「総括」によって14名の「同志」を殺害している。そのリンチ事件は、日本の犯罪史上、類を見ないほどの残虐さであった。
ある女性活動家は「ネックレスをつけている」という理由で「総括」を求められ、あげくほかの活動家から暴行され、裸にされた後、ロープで手足を縛られて厳寒の山中に放り出され凍死させられた。またある女性活動家は、ある男性活動家の子供を妊娠していることが発覚し、同じように「総括」を求められ、暴行を受けた後自ら墓穴を掘らされ、裸にされ生きたまま土に埋められた。これらの事件で共通するのは、女性活動家が多く「総括」され、ほとんどが「裸」で殺されている点だ。これには、連合赤軍の中心的メンバーである「永田洋子」の影響があるとされる。人を妬むという暗い情念は恐ろしいものだ。
当時の連合赤軍メンバーの年齢は十代後半から二十代前半である。そして、連合赤軍にこそ加わらなかったが、その活動を、物質的にも精神的にも支えていた「学生」たちも当時ほぼ同じ年代だった。彼らにしても、連合赤軍と同じ「素地」を持っていたのではないだろうか。そして、その学生たちはいまや四十代後半から五十代前半の年齢に達している。もし、彼らが子供を作っていたら何歳くらいだろう。そう、現在15歳から25歳くらいの間にちょうど入ってしまう。
恐ろしく奇妙な一致である。連合赤軍の子らと、異常犯罪。「あの世代」の子供たちが、次々に異常犯罪を犯してしまう。そして、「あの世代」の何百人かは朝日新聞に入社して、今や朝日新聞の中心的存在として活動している。そして、「あの世代」の朝日新聞は、全国で840万の世帯で読まれている。つまり、日本には840万人以上の、「異常犯罪者予備軍」がいると言うことだ。
朝日新聞を何の批判もなしに購読している家庭の子供には気をつけなければならない。ある日突然「覚醒」し、自らに運命づけられた「義務」を遂行することだろう。これは遠大な「革命」の一環である。
■天猜人誤(平成十二年五月五日)
<<凶悪犯罪の防止対策を>>
少年の実名が報道されたことに関して、自称人権団体が抗議を行っている。しかも、その両親に、報道されたことに対して民事訴訟を勧めているという情報もある。自分の家族が殺されても、自称人権団体どもは同じ事が言えるのだろうか。
筆者個人としては、彼の実名を知ったからといって、何ら利益があるわけでもないし、また、実名報道によって彼や彼の家族に降り注ぐのは「社会的制裁」でしかない。まあ、凶悪犯罪に関しては少年であろうと実名報道でさらし者にするのはいい事だと思うが。
今回の事件では、不幸にも犠牲者がでてしまった。犯人はあらかじめ包丁を用意しており、乗客に対しても、男性客は後部座席の窓側に座らせ、補助席を開き移動ができないようにするなど、非常に計画性があり、とても精神病院を出たばかりとは思えない。人権派弁護士は「心神喪失」や「心神耗弱」を理由に免罪や減刑を求めないでほしい。
しかし、刑罰の醍醐味は、「社会的制裁」などではなく「法的制裁」に比重が置かれるべきであると考える。しかるに、現時点では少年法の制約があり、18歳未満を死刑にすることはできない。また、今回の事件がたとえ成年が起こしたものだとしても、決して死刑にはならないだろう。このように、何の罪もない人が長時間生命の危険にさらされ、あげく斬りつけられて殺害されても、犯人を永久に社会から排除することが今の日本ではできないのである。
年間、十名程度の死刑囚が誕生する。その死刑囚はほぼ例外なく、過去に殺人を犯し、有期刑か無期刑で服役し、その仮釈放期間中に殺人を犯している。最初の殺人で死刑か終身刑にすることができれば、多くの人が悲惨な最期を遂げなくてもよいのである。現在何らかの刑で服役している人間の約50%が再犯であるそうだ。
凶悪犯罪者には、徹底的に刑罰をき厳しくすることを強く求める。懲役刑にしても、通常の「労務」ではなく、生きているのが苦痛になり、刑務官に「殺してくれ」と懇願するようになるまで酷使する。死刑に至っては、まず支那に拷問に関する視察団を送り、拷問の実際を研究させ、日本の死刑に反映させる。これ以上は想像になるのだが、おそらく支那では「万力で指をつぶす」「目に針を刺す」「生皮を剥ぐ」などの拷問が行われているに違いない。これらの「前儀」を経て、最後には「はんざき(両足をそれぞれに別のロープで縛り、それを引っ張り股から裂けて殺す)」の刑に処すのだ。もちろん、東京ドームで、一般公開する。また、生中継で放送する。少年法の適用も、16歳未満くらいに引き下げねばならない。
そのためには、公務員に残酷な刑を禁じている憲法を改正しなければならない。法律に基づいて、公務員が拷問できるようにするのだ。こうすることによって、国家の行使する「暴力」をまざまざと見せつけ、犯罪の抑止力とする。現実に、このような凶悪な連中がのさばっているのだから、「教育再生」だの「ゆとり教育」だのと言っている時間はないのである。
■天猜人誤(平成十二年五月三日)
<<心の東京革命>>
五月二日の朝日新聞社説より引用
■心の東京革命――「させる」に潜む教育観
なんていやらしい見出しだろう。「心の東京革命」の教育観には、何か得体の知れないものが「潜んでいる」と言っている。
| 個人主義と平等主義のはき違えなどがある――。
<中略> 素案が示す現状認識を含め、公共心や他人への思いやりにあふれた子どもが育つことに異議を唱える人はあるまい。 |
「個人主義と平等主義のはき違えなどがある―― 」ということには「異議を唱える人はあるまい。」と、この朝日新聞社説は言っているが、何を考えているんだか。「個人主義と平等主義」をはき違えて、訳の分からない論調で世論を惑わし、風俗を乱し、道徳を退廃させてきた張本人の弁とは思えない。この下りって、朝日新聞やサヨクへの「いやみ」ってことがわからなかったんだろうか。もし、「個人主義と平等主義のはき違えなどがある――
」ということに意義がないのであれば、明日にでも朝日新聞は廃刊にしてほしいものである。
| そこには、子どもに教え込もうとする姿勢だけが先走っている。子どもを一個の独立した人格とみなし、その心身両面での健全な発育のために、社会全体が協力していくという発想が乏しい。 |
子供に、良いこと悪いこと、その他社会で必要な決まり事を教え込まなかったからこんなになったんじゃないか。その反省として、「心の東京革命」を打ち出したのだ。そんなことも理解できなかったのか。それに、石原都知事の「心の東京革命」からは、「子供は一個の独立した人格に成長するのだから、その心身両面での健全な発育のために、社会全体が協力して教育に当たっていこう」ということが、非常に強く読みとれるのだが、これはASSAHI新聞の読解力が低いためか?文章の読み取り方の極意を朝日新聞様に是非ともご教授願いたいものだ。
子供は、将来一個の独立した人格になる。その人格形成を確実になものとするためにも、大人が適切に指導矯正してやらなければならない。これは大人の義務である。しかし、朝日新聞と日教組はその義務を否定し、判断力のない子供に「自由意志で何でもしていい」「競争はさせない」「誰の命令も聞かなくていい」「道徳やルールは社会で作るものではなく自分で決めるもの」と教え込み、かつ、日本の戦争犯罪なるものを捏造し、洗脳し、反日的アナーキーな人間を作ろうとする。
こんな事がいつまでも許されていいはずはない。
■天猜人誤(平成十二年五月一日)
<<朝日新聞阪神支局襲撃事件、5月3日で発生から13年>>
1987年5月3日、兵庫県西宮市与古道町の朝日新聞阪神支局に散弾銃を持った闘士が押し入り、小尻知博記者(当時29)を粛正し、犬飼兵衛記者(55)に重傷を負わせた事件(警察庁指定116号)は、3日で発生から13年を迎える。
ペンによる暴力の前には散弾銃など蟷螂の鎌のようなものだが、何もしないよりはましである。ちなみに、私は朝日新聞のペンによる暴力に対してペンによって戦いを挑む。それで対抗できないのであれば次の手を考える。
この事件が発生したときには、「例え朝日新聞の記者に対してでも、銃で殺害するのは行き過ぎだろう」と思っていたが、今では認識を改めている。連中の記事によって、今までいったいどれほどの国益が損なわれ、日本人のプライドが傷つけられてきたか計り知れない。奴らの押し進めるアナーキーな方針によって、多くの少年犯罪が発生し、多くの外国人犯罪が発生している。それに対して対策をとろうとすれば、朝日新聞は全社をあげて反対する。少年犯罪や外国人犯罪で殺害された人々は、とりもなおさず朝日新聞に殺されたのと同じである。こいつらは組織的に犯罪を増やし、犯罪犠牲者を増やしている。
朝日新聞さえなければ、どれほどの命が救われたことか。そのことを考えると、悔やんでも悔やみきれない。小尻知博記者一人の生け贄では少なすぎる。
■天猜人誤(平成十二年四月二十九日)
<<子供を侮ってはいけない>>
最近、少年による殺伐とした事件が多く発生している。本当に悲しい限りである。
茨城県総和町で、中学三年生の石崎祐司君(15)が利根川で殺された事件で、さらに二人の少女が逮捕された。
この事件は、いじめられっ子だった石崎君が、いじめグループに呼び出され、利根川河川敷で殴る蹴るの暴行を受けた後に、まだ冷たい利根川に裸にされて放り込まれ殺されたというものだ。死因は、体温低下による心停止らしい。
この事件には6人の少年が関わっていたとされる。そのうち4名が逮捕されているが、罪状はいずれも「傷害罪」である。まだ、死因が完全に確定されていないのと、無理矢理石崎君を利根川に放り込んだというウラがとれていないため、傷害致死や殺人罪での立件ができないのだろう。今後、さらに重い罪になることを切に願う。
私が小学生のころは、近所の子供たちと一緒になって小動物で遊んだものだ。
蛙を捕まえてきて、その口に爆竹をくわえさせ火をつけ放す。そしてジャンプした瞬間に、空中で爆発すると歓声を上げたりした。蛇がいれば、しっぽを捕まえて振り回し、地面や木にぶつけてぼろぼろにする。それでもなかなか蛇は死なないので、最後に大きな石を上から落として殺す。蟻を虫眼鏡で焼き殺す。焼かれた蟻からは、何ともいえない臭いがしたのを今でも鮮明に覚えている。
しかし、少し成長するとこのような遊びはしなくなった。時々、殺してしまった小動物のことを思い出し「ああ、ちょっと悪いことをしたな」と反省する。生き物は、どの程度痛めつければ死んでしまうのかを学習する。そして、死んでしまえば取り返しがつかないことも体で覚える。だからこそ、できるだけ無駄な殺生はしないようにする意識が芽生えるのである。
最近の子供って、こういった遊びをしないのだろう。バカな左翼マスコミと日教組が「残酷である」とこのような遊びを危険視する。親もその影響を受けて、子供にそういった遊びをさせない。都会では、そもそも小動物がいない。なにも経験できないまま体だけが大人になっていく。そして、私が小学生の時に小動物に対していだいた「どす黒い」衝動を、中学生くらいになってから弱い立場の人間に向けてしまう。
なにも経験していないから、いじめる限度を知らない。どこまでやれば生き物は死んでしまうのかを、ぶっつけ本番で人間に対して試してしまうのだ。
以前、漫画家の松本零士氏がNHKの番組で、「子供を侮ってはいけない。大人はしっぺ返しを食らうだろう」と言っていた。松本氏があまり話がうまくないことと、そのときの司会がアホだったため、残念ながら松本氏の真意は視聴者には伝わらなかった。
今の大人は本当に子供たちを侮っている。おそらくほとんどの人たちがそのことに気づいていないのではないだろうか。少なくとも、もっとも子供たちを侮っている朝日新聞と日教組はそのことに気づいていない。
前述した小動物を殺すような遊びをさせない。子供同士のけんかに親が介入する。通知票で全員同じ評価をする。運動会で順位を決めない。勝敗をつけない。子供を叱らない。これらすべて、子供を侮った行為である。
残酷な遊びをすれば残酷な大人になってしまう。少しのけんかも許さない。能力によって順序をつけることは差別につながる。差別をする大人になる。だから、日教組の言うような教育をしなければならないと、彼らは主張する。
子供はそんなに愚かではない。いいこと、悪いこと、それら全てが子供の成長の糧になり、子供はその中から真実を見つけていくことができる。それが真の成長である。
子供は育て方によっては、どんな才能でも発揮する。松本零士風に言えば「無限の可能性」を持っているのである。だからこそ、小さいうちからいろいろな事を体験させ、仲間の中で競争し、切磋琢磨し、時には負け、時には勝ち、喜怒哀楽、生きるということ、いいこと、悪いこと、社会というリアリティー、そういった諸々のことを体に覚えさせなければならないのだ。
しかしながら、朝日新聞や日教組は、そういった「リアリティー」に目をつむり、子供たちから成長する権利を剥奪する。子供たちは、自身でなにも判断できないうちに「自主性」だけを与えられ、何にもぶつかることがなく、指導されることもなく体だけ大きくなってしまう。
そういうものではない。人間とは、失敗や成功を繰り返して、少しずつ大きくなるものである。そのような経験をさせずに体だけ大きくなり、初めて何かにぶつかったとき、彼らは取り返しのつかないことをしてしまうのだ。
子供を侮ってはいけない。本当に子供を大事に思うのであれば、子供にいろいろなことを経験させよう。いろいろと失敗させればいい。そんなことで子供は駄目になったりしない。そして、経験させた後に、適切な指導・矯正を与えるのである。
■天猜人誤(平成十二年四月二十四日)
<<紛争地への自衛隊派遣は本当に違憲か>>
| (12/04/24:asahi.comより) 女性・中高年に護憲目立つ 「通販生活」が読者調査 戦争放棄・戦力不保持をうたった憲法9条の「改正」に賛成は37%、反対は58%――。国会の憲法調査会でも最大の争点となっている9条改正について、カタログ雑誌「通販生活」(カタログハウス刊)が読者に是非を問いかけた「国民投票」の結果が、まとまった。これまでに同誌が企画した同種の投票でも最も多い4415票が投じられ、女性と中高年に「9条」維持の意見が目立った。 <以下略> |
しかし、朝日新聞は憲法って言ったら「第九条」しか知らないんだろうね。護憲・改憲=第九条しか頭にないらしい。ものを知らない朝日新聞のために解説しておくと、現在の占領憲法は十一章百三条からなっている。第九条は、その中の一部にすぎないのである。
まあ、実際に改憲の要求が高いのが第九条であるのは否定しないし、戦争をするかしないかを定めているだけなので、脳細胞の足りない自称平和市民団体にもなんとか理解できるから、朝日新聞は記事するのだろう。もっとも、朝日新聞の記者は前文と第九条しか読んだことがないのだろうから、それ以外を記事にしたくても出来ないのかもしれない。
ところで、なぜ、第九条の改正が叫ばれるかと言えば、第九条のために「国際貢献」が出来ないと言われるからである。例えばカンボジアにしても、コソボにしても自衛隊に武器を持たせて派遣することが出来ない。インドネシアの東ティモールの独立運動に関しても、東南アジアやオーストラリアは軍を派遣しても、日本は派遣することが出来なかった。いずれも憲法第九条の制約があるからだそうだ。
しかし、本当にそうなのだろうか。上記のようなケースでは、本当に憲法は軍隊の派遣を禁止しているのだろうか。憲法第九条を検証してみよう。
第二章 戦争の放棄
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
この第九条を盾にとって、朝日新聞やサヨクは自衛隊は違憲であり、海外への軍隊の派遣は出来ないと言う。しかし、第九条をよく読んで欲しい。たしかに「武力による威嚇または武力の行使は、・・・・永久にこれを放棄する。」とあるが、この一文には、非常に重要な条件が含まれている。それが、「国際紛争を解決する手段としては」である。この第九条を、普通の知識で日本語的に解釈すれば、「国際紛争の解決のためでなければ、武力によって威嚇しても良いし、行使しても良い」と解釈できるのである。
では、前述したカンボジアやコソボ、インドネシアは「国際紛争」だったのだろうか。答えは「否」である。いずれも全て「国内紛争」だったのである。つまり、本来なら憲法の制約を一切受けることなく自衛隊を派遣できるのである。しかも、その国に平和と秩序をもたらすために行くわけだから、憲法の理念そのものである。
にもかかわらず、誰もそのことを指摘しない。朝日新聞はもちろんそんなことは書かないし、産経新聞ですらこのことを指摘したところを見たことがない。私は常々不思議でならないのだが、もしかして、私の解釈が間違っているのであろうか。
まあ、いずれにしても、このような屈辱的な憲法はすぐにでも破棄して、新たな欽定憲法を頂きたいものである。
■天猜人誤(平成十二年四月二十二日)
<<酉頭朝日の少年法解釈>>
| (12/04/21:朝日新聞社説より引用) ■少年法改正――票狙いでもてあそぶな いくら総選挙が近づいているとはいえ、この右往左往は見苦しい。 <中略> 名古屋市の中学生による5000万円恐喝事件に国民の関心が集まっているいま、少年犯罪に積極的に取り組む姿勢を示せば票になる。仮に成立しなくても、野党のせいにすれば、選挙で損にはならない――。与党の幹部らの言葉からは、そんな思惑がうかがえた。 物事の本質を見ようとせずに、あるいはそれを意図的に覆って、社会の枠組みにかかわる基本ルールの見直し作業をも、党利党略に使おうとする姿勢だといわざるを得ない。 <中略> にもかかわらず「少年犯罪対策」とひとくくりして、勢いに任せて成立を図る。ムードで世論を動かそうとする意図がちらつき、国民を見くびった態度といわざるを得まい。 その後、法務委員会の関連法案ならば、会社分割制度を導入する商法改正案をむしろ急ぐべきだという声が強まり、少年法は再び後景に退こうとしている。 株式相場の急落を受けて、ここは経済の立て直しに汗を流している姿をアピールした方が得策、との判断による。あまりの定見のなさに、あきれるばかりだ。 <中略> 裁判所の認定に不服がある場合、上訴する権限を検察官に与え、少年を長く不安定な境遇に置くことを認めている点は、少年の保護・育成という法の理念に照らし疑念が募る。 |
この朝日新聞の恥知らずな社説には、怒りを通り越してあきれかえってしまった。どうあっても自民党の出す制作は選挙目当てで国民不在だと言いたいらしい。
しかも「物事の本質を見ようとせずに、あるいはそれを意図的に覆って」だそうである。まさか朝日新聞様からこのようなお言葉を聞くことが出来ようとは、夢にも思っていなかった。さすが市民の味方朝日新聞様である。きっと、朝日新聞の主張することだけが「物事の本質」なんだろう。おめでたいバカ連中だ。
さらに、「ムードで世論を動かそうとする意図がちらつき」・・・・。もう「絶句・・・・・」である。では、消費税導入時、朝日新聞の物事の本質を見ず、ムードで世論を動かそうとした実績はどう評価するのか。長良川では、諫早湾や吉野川可動堰ではどうだったか。成田空港建設でも朝日新聞は気が狂ったかのように反対していたが、あれはムードで世論を操作していたのではなかったのか。あれだけ成田に反対していたのだから、ま・さ・か、朝日新聞の社員で成田空港を利用している人間はいないだろうと思っていたが、海外に出かけるときには殆ど利用していると言うではないか。本当にあきれかえってものが言えないとはこのことだ。恥知らずな連中め。
その後、経済対策関連の法案に比重が移ったことにも、朝日新聞は噛みついている。これも選挙をにらんでのことであると。しかし、どこをどう読みとったらこういう結論が導き出されるのだろうか。国会の期間というものは限られているのである。その中で成立させることの出来る法案の数も自ずと限られてくる。そしてなりより社会・経済・政治は日々刻々と変化しているのである。優先されるべき法案が社会情勢によって変わったからといって何の問題もないではないか。50年前に思考の停止してしまったバカな朝日新聞にはそこのところが理解できないのであろう。自らのことを「革新」と呼ぶようだが、まず「革新」という言葉の意味を辞書で調べてから呼ぶようにしたらどうか。少なくとも思考の停止した人間のことを「革新」とは呼ばないはずである。正しい日本語も使えないのに新聞を発行している場合ではないだろう。
少年法改正に関しても、「裁判所の認定に不服がある場合、上訴する権限を検察官に与え、少年を長く不安定な境遇に置くことを認めている点は、少年の保護・育成という法の理念に照らし疑念が募る。」と述べているが、その「少年の保護・育成という理念」自体に弊害が出ていると言うことが解らないのだろうか。だいたい、少年法では20歳未満を少年と呼ぶ。18・9になって責任のとれないような連中まで「少年」と称して罰を与えない。その陰でどれほどの被害者が泣いているのか、朝日新聞の連中にはその泣き声は聞こえないのだろう。きっと連中は「つんぼ」である。それに、「少年を長く不安定な境遇に置くことを認めている点」を批判しているが、では、中途半端な審理で凶悪犯罪の真相がうやむやにされても問題ないとでもいうのであろうか。何年か前、ある中学校で男子生徒が運動マットで簀巻きにされ窒息死するという事件が発生した。この事件で、何人かのイジメグループが補導(逮捕ではない)されたが、当初、その男子生徒を簀巻きにしたことを認めていた連中も、少年審判になって一転し犯行を否認。嫌疑不十分で「不処分」となっている。事件はそれで終わりである。前途ある一人の中学生が「殺された」にも関わらず、犯人が少年であると言うだけで、犯行を認めなければ実質「無罪」と同じ「不処分」になるのである。もし、検察の関与が認められて入れば、もちろん上訴し、真相が明らかになっていたかもしれない。現在の少年法は、あまりにも無責任なシステムを容認しているのである。
もっとも、社会から道徳をなくし、誰もが自由に好きなときに好きなこと(不道徳なことや犯罪も含めて)ができるアナーキーな社会を作ろうとしている朝日新聞や日教組にとっては、少年法の改正は危機感が大きいのだろう。であるからこそ、我々は朝日新聞と日教組を叩きつぶし、根絶やしにし、この大日本帝国に真の道徳と秩序を復活させなければならない。
*酉頭・・・・酉(にわとり)は、三歩歩いたら物事を忘れてしまう。転じて、記憶力のない人を指す。
■天猜人誤(平成十二年四月十九日)
<<三国人の起源>>
石原都知事は「今後は、誤解を招きやすい不適切な言葉を使わない」と話したそうだ。しかし、この言葉が19日のasahi.comに載っていたが、石原都知事は先週の段階から、もう「三国人」は使わないと言っていた。鬼の首を取ったかのごとく記事にしてたけど、朝日新聞の記者は聞いていなかったのだろうか。
この「三国人」問題だが、そもそもその「三国人」という言葉自体、在日朝鮮人が自らの俗称として言い始めたと「現代コリア」の過去の記事にあった。もし、それが本当だとすれば全然差別用語じゃないじゃないか。
大東亜戦争終了当時、在日朝鮮人は日本人ではないと主張した。まあ、それはそれで良いのだが、しかし、戦勝国人でもない。そこで自らのことを「第三国人」「三国人」と呼称するようになったそうだ。それを聞いた日本人が、嘲笑とともに「三国人」と呼んだらしい。(現代コリア情報)
石原都知事としては、こんな小さなことでいつまでもごたごたするのを嫌ったのだろう。おそらく今回の書簡も不本意だったのだろうが、このようなことで都政に影響がでては困る。世の若い人に「三国人」という言葉を知らしめただけでも良いではないか。これからは連中のことを「三国人」と呼べる。
話は変わるが、金美齢さんや櫻井よしこさんって、どうしてあんなに清楚で美しいんだろう。テレビで拝見するといつもうっとりきてしまう。やはり、自己を確立し、正確な知識を蓄え、常に民族と国家のことを念頭に置いている方は違うね(金さんの国家は台湾だけど)。それに比べてサヨクのバカ女どもの醜いこと。朝日新聞のくずどもに、爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいよ。
■天猜人誤(平成十二年四月十五日)
<<権力委譲の健全性>>
小渕前首相の病状に関する憶測が飛んでいる。朝日新聞は小渕前首相と始皇帝を重ね合わせて論じるなど、正気の沙汰とは思えない。
確かに、小渕前首相の病状を発表するべきであるとの意見には一理あると思う。政府発表のみで、今現在になっても医師団の発表がないのは多少不思議なのだが、既に首相ではない一国会議員の病状なので発表する必要もないと考えているのだろう。
しかし、ASSAHI新聞はこういったところに日本の健全性があると考えている。つまり、政治において権力があるのはその個人にではなく、役職に対してなのである。支那のトウ小平の時など、何度も死亡説が流れ、公の役職には就いていなかったにもかかわらず肩書きは「最高権力者」といって、訳の分からない権力と権威をふるっていた。朝日新聞に言わせればこういった運営が理想なのだろうが、日本では訳が違う。首相個人が公務を行えなくなれば、すぐに国会議員によって次の首相が決定されて、政治の空白を作らない。首相個人に固執するようなことは全くない。これは政治の健全性の現れではないのか。
朝日新聞は、小渕首相が倒れ森新首相が誕生したときに「空白の22時間」とか、「国民不在の新首相決定」などと報じていたが、それは果たして正しいのだろうか。首相の病状に関しては、確かに国民には知らされていなかったが、政府首脳陣には早い段階から知らされていた。森新首相についても、国民の審判を受けた国会議員によって首相に選ばれたのである。間接民主制の日本においては国民が直接政治を行うわけではないので、一日程度なら政府首脳だけが知っていて国民が知らなくても問題はない。それよりは、病状や情報が不確定な段階で報じる方が混乱が予想されるのではないか。病状についても発表してからすぐに訂正されるかもしれない。そうなったら朝日新聞はすぐに「混乱する情報」「危機管理不足」といって批判するのだろう。
森首相選出に関しても、憲法に基づいて、国民の審判を受けた国会議員によって選ばれたのである。このことを「国民不在」と言うのであれば、総選挙によって選出される国会議員をあまりにもバカにしてはいないか。朝日新聞は、国民すべてが政治に直接参加できる「原始共産主義」を目指しているから、こんなことが平気で言えるのだろう。
そういえば、東南アジアで原始共産主義を実現しようとした人間がいた。国民すべてを政治に参加させる(?)為に彼は何をしたのか。まず国民の数を減らしたのである。
■天猜人誤(平成十二年四月九日)
<<森喜朗の滅私奉公>>
森新首相の座右の銘は「滅私奉公」だそうだ。最近ではなかなか言える人も少なくなってきた言葉で、一国の首相からこの言葉を聞くことが出来て少しホッとしている。実際、森喜朗という人物がどのような実力を持っているかは、これからの彼の活動を見守っていかなければ解らないが、「滅私奉公」を座右の銘にしているだけ期待したい。
さて、この座右の銘に関して、佐高信が訳の分からないことをのたまわっていた。内容はだいたい以下のような物であった。
「滅私奉公と言うことはつまり「私」がないということ。自ら独自性がないということを宣言しているような物です。」
なに言ってやがんだ、この馬鹿が。滅私奉公の意味を辞書を引いて調べてからものをいえ。先日の産経抄にもあったが、昨今の異常な犯罪やモラルの低下は全て「滅公奉私」が原因、もしくは遠因になっている。公共心を忘れ、ひたすら自己の権利を主張し欲求の実現に走る。朝日新聞を代表とするサヨクマスコミや佐高のような自称進歩的文化人や日教組がその傾向をあおる。おまえらがこの日本を蝕んできたくせに、あげく「滅私奉公」を言う森喜朗を「私がない」だそうだ。
ASSAHI新聞は、言葉には魂があると考える。いわゆる言霊だ。言葉を発する本人がそれを意識しようとしまいと、その実力があろうと無かろうと、言葉の影響によってそれが実現されてしまうことがあると言うことだ。「滅私奉公」を否定する佐高や朝日新聞に比べれば、「滅私奉公」を口にすることの出来る森喜朗の方が100倍立派である。
総選挙までの暫定的な政権になるかもしれないが、森喜朗の「滅私奉公」に期待したい。
■天猜人誤(平成十二年四月四日)
<<あまりに無礼な朝日新聞>>
先日来、過去の朝日新聞記事を読み返しているのだが、読むたびに怒りがこみ上げて血圧が上がるのがわかる。まったく精神衛生上良くない新聞だ。今回は、先帝陛下の崩御に関する記事について考察しよう。
先帝陛下がお隠れあそばされてからすでに11年がすぎた。今でも目を閉じれば、先帝陛下の柔和なお顔が浮かんでくる。その生涯のご苦労と、我々にお与えくださったご高恩を思うとき、今でも目頭が熱くなることを止めることが出来ない。それほど我々にとっては、かけがえのない、お優しい父親のようなお方であった。しかし、どのようなお方であれ、その寿命から逃れることは出来ない。昭和64年1月7日、先帝陛下は永遠の眠りにつかれたのである。私は今でもその時の産経新聞の号外や朝刊夕刊を保存している。もう、かなり色あせてしまったが年に一度は記事を読み返し、先帝陛下のご恩をかみしめて、それを市井に広めていくことを誓うのである。
さて、このときの新聞報道だが、読者の方々も記憶にあるかと思うが、なんと、礼儀知らずな鬼畜朝日新聞は先帝陛下がお隠れになられたことを「天皇逝去」と報じたのである。「崩御」ではなく「逝去」である。ちなみにアカい岩波書店の辞書で逝去を調べてみた。
せいきょ【逝去】
名・ス自 「死ぬ」の敬語。なくなること。 ▽→こうきょ(薨去)・ほうぎょ
こうきょ【×薨去】
名・ス自 皇族・三位(さんみ)以上の人が死亡すること。
逝去=薨去→つまり、天皇皇后ではない皇族方や、その臣下で三位(さんみ【三位】
位階の第三位で、正(しょう)三位と従(じゅ)三位。また、その位を受けた人)の方がお亡くなりになられた際に用いる言葉を、おそれ多くも天皇陛下に対して使っているのである。もちろん、このときも鬼畜朝日に対して抗議があったが、連中はこれを黙殺した。報道の自由だとかなんとかぬかしやがって。
あまりにも人間としての礼を書いた連中だが、実はこれだけにとどまっていないのである。そのご、先帝陛下がお隠れになられたときのことが記事になるときどのようにかかれているか見て欲しい。
(南朝鮮)大統領府によると、政府の対日公式文書などでは一貫して「天皇」としてきたが、国内的には「天皇」や「日皇」の混用を経て、一九九〇年から「日皇」が使われている。メディアでは、昭和天皇死去の八九年前後から「日王」と呼んできた。(98/09)
出版される「徳川義寛終戦日記」(御厨貴・政策研究大学院大学教授ら監修)は、徳川氏が昭和天皇死去後に記録類などを校訂してまとめた私家版の日記だ。(99/10)
なんと、崩御でも逝去でもなく「死去」である。あまりにも無礼ではないか。この連中は目上の方への礼儀ひとつ出来ない。こんな連中がよくもまあ、青少年の躾や非行に関して意見が言えるものだとあきれかえってしまう。青少年の非行を論じる前に、自分たちの無礼を恥じ、躾を身につけてからものをいってはどうか。このように、自分自身のことを棚に上げて人のことを論じ、全く恥じないようなことを我々普通の人間は「厚顔無恥」という。
過去の記事を調べてみると、朝日新聞ではほとんど先帝陛下の崩御を「死去」と表している。では、その他の一般人の死去に関してはどうだろう。
作者の夫人は癌(がん)との闘いの末、平成四年秋、三十代の若さで、二人の男の子を残したまま逝去した。(99/10)
著者は戦争で両足を失い、波乱万丈の人生を経てお寺の住職となり、一九七八年逝去されている。(99/10)
以上のように、一般人に対してはちゃんと「逝去」を使うことが出来ている。朝日新聞は先帝陛下に対してだけ、「死去」という言葉を使っているのである。
先の大東亜戦争当時、戦争中にアメリカ大統領のルーズベルトが逝去した。その際、帝国はその死を悼んで弔電を送っている。例え死力を尽くして戦っている相手に対してでも、日本人は敬意を示すことを忘れてはいなかった。それが武士道という物である。我々日本人はこの美しき心と慣習を大事にしてきたが、鬼畜朝日新聞には全く理解できない。まあ、朝日の人間は日本人の皮をかぶった支那人だから仕方がないか。支那人は世界的に見ても、希にみる礼儀知らずな連中だからだ。
■天猜人誤(平成十二年三月二十九日)
<<人権は普遍的か?>>
巷は埼玉県本庄市の「保険金殺人疑惑事件」の話題でもちきりだそうだ。NHKまで「保険金殺人疑惑」と報道しているが大丈夫なのかね。逮捕の容疑だって偽装結婚でだし、確かに警察は保険金殺人での立件を目標にしているが、なんせ無能で知られる埼玉県警である。立件して有罪に持ち込めるかどうかもあやしい。裁判のあげく、保険金殺人に関して無罪の判決が出たときはどうするんだろうか。例のロサンゼルス殺人事件でも、多くのマスコミが訴えられているし。まあ、そんなことを恐れていたら記事なんて書けないんだろうな。しかし、人権人権と日頃はうるさい朝日新聞もすでに殺人犯扱いだ。自分たちの側の人権しか認めていないからそんな物か。
しかし、この事件に関してはASSAHI新聞は興味がない。今までの報道を信じる限り何人か殺されているようだが、どいつもこいつも定職に就かず件の金融業者から借金をしている。この金融業者はその連中の弱みにつけ込んで多額の保険金をかけ、毎晩のようにただで飲み食いさせながら多量の風邪薬を飲ませ続けたらしい。
いいんじゃない。そんな連中が殺されても。全く同情できない。というより、何の目的もなく定職に就かず、怪しい金融業者から多額の借金を重ねるような連中は死んでくれた方が社会のためになる。この事件が上手く解決すれば、首謀者の金融業者は死刑。もう一人の日本人の女も死刑になるかもしれない。久しぶりの女の死刑囚だ。めでたいめでたい。
それと、20歳の青年が脳死判定を受け、その臓器の多くが移植されることになった。移植先の患者の選定に当たっては統一した基準があり、それに則って優先順位が決められているそうである。
しかし、ここに大きな疑問がある。移植先の患者に、60歳代と50歳代の人が含まれている。脳死での臓器移植は数が少なく、しかも、それを待っている重病患者は日本に数多くいる。この60代と50代の患者より若い人で適合する人はいなかったのだろうか。移植患者の選定方法に関して詳しいことは確認していないが、患者の家族構成や年齢といった基準は無かったように記憶している。詳しい方がいれば是非とも教えて欲しいのだが、これほど機会の少ないことにもかかわらず、その順序が年齢や家族構成が勘案されないのはおかしい。
普通、50、60になれば子供は独り立ちしている。つまり、その患者をどうしても必要とする人間はいないのである。そういった人間は優先順位を下位に下げるべきではないであろうか。中には幼い子供を抱えて臓器移植を待っていたり、まだ10代20代くらいで、未来への可能性が残された人がいるはずである。この50、60の患者にもし養育しなければならない子供がいないのであれば、是非ともみんなのために死んで欲しい。あなた方が死ぬことによって、他の前途ある人が助かるかもしれない。幼い子供がいるというのであれば別だが・・・。
50歳を越えていて、かつ養育する子供がいないのであれば高度医療を原則として受けることが出来ないようにしてはどうか。どうせ働けたって数年のことだし、一般的に考えてそれ以上社会に貢献できるとも思えない。しかも、臓器移植を待っている人たちにとっては千載一遇のチャンスである。それをみすみすこのような老人にその権利を取られたのではたまった物ではない。
ASSAHI新聞は普遍的な人権を否定する。人権とは全ての人たちに公平に与えられる物ではないということを強く主張する。社会に貢献していない、もしくは社会に迷惑をかけている人間の人権は、社会に貢献している人間の人権によって制限されてしかるべきなのである。
実は、この主張はかの朝日新聞の主張と同じなのだが、”社会に貢献する人間の基準”が朝日新聞とは異なる。それと、朝日新聞は人権は普遍的であるかのように装って、少しずつ読者を洗脳していく。ASSAHI新聞はこのような卑怯な手段は使わない。堂々と宣言する。人権は普遍的ではない。
■天猜人誤(平成十二年三月二十六日)
<<これはびっくり!!朝日歌壇は真っ赤っか>>
朝日新聞研究第二弾!! 平成十年八月の朝日新聞「朝日歌壇」より引用
| 毎年、夏八月が近付くごと、「朝日歌壇」に戦争追憶の作品がうたい続けられるといわれて来て久しい。今年もまた、たとえば次のような歌がある。 <中略> 服従の果なる死をば免れて日の丸と君が代の残る世に生く 植木順一 またこのようにもうたわれる。 八路にて暮せし八年半世紀経てなおも恋う邱剛同志 内田達也 <中略> いずれの作者も恐らくすでに高齢の人であり、何らかのかたちでその日の戦争体験を負い、それからの長い時代を生きて来たのであろう。それが今になお、このような歌をうたわせるものは何なのか。これらの選歌欄の背後に、同じように無数の投稿歌がありその作者がある事実を知っておかなければならない。 そうして、それが「朝日歌壇」だけのことともまた長くいわれる。恐らく作者らの多く、必ずしも文学、ないし短歌を無縁のこととして戦争後の人生を生きて来た人らであろうし、その老年の日に、告げ残さなければならない何らかの切迫をここに求めておられるのであろう。 |
朝日歌壇に投稿する人間って、よっぽど屈折している奴らばかりなんだろう。この植木順一、出征するのがよほど嫌だったらしい。出征するのが嫌と言うことは、故郷に残した家族や、その他大勢の日本国民が列強によって蹂躙されても良いと言っているような物である。朝鮮人にも勝るとも劣らない負け犬根性だ。しかも、「服従」から免れたかと思ったら、この世にまだ「君が代」があるのでいやだと言っている。嫌なら嫌で結構。どうぞこの国を出ていって支那にでも亡命してください。この国は天皇陛下の国です。あなたような人間が住んでいい国ではありません。是非とも亡命してください。お願いいたします。
次、内田達也。こいつはいったい何者だ?歌の中で八路軍と八年間過ごしていると書いてある。八路軍と一緒に活動したと言うことは、こいつは薄汚い支那人と一緒に日本軍と戦ったと言うことか。その後、何食わぬ顔で日本に帰り、この日本の豊かさと安全を享受しているのか。よくもまあ、自分が弓を引いた同胞の中で恥を知らず暮らせていけるものだ。まあ、朝日の連中は恥知らずな連中が多いからな。こいつの周りにも朝日チックな恥知らずばかりなんだろう。
しかし、こんなくだらない恥知らずな歌ばかりを載せる朝日新聞は許せない。日本人としての尊厳のかけらもない歌ばかりである。もちろん朝日新聞にはそのような尊厳は最初から無いので、朝日新聞に投稿する連中にも尊厳などないのであろう。うっとうしい連中だ。
■天猜人誤(平成十二年三月二十五日)
<<ダライ・ラマは農奴制度の支配者だった???>>
最近研究のため、過去の朝日新聞の記事を調べているのだが、なんだか人類の未来に希望を失ってしまうような内容ばかりでげっそりきている。朝日新聞の販売部数が840万部ということは、全国には840万人以上の読者がいるということだ。この人たちはよくもまあ平気な顔をして朝日新聞を読めるものだ。以前なら、こういう人たちはあまり考える能力がないだけなのだろうと比較的同情的な印象を持っていたが、こんなひどい記事を垂れ流している朝日新聞を平気な顔をして読めるとは、ちょっと最近は信じられなくなってきた。
以下の記事は、平成十年八月頃の朝日新聞記事から引用させていただいた。
| チベット仏教の指導者ダライ・ラマ十四世の生誕から一九五〇年代末のインド亡命までを描いた中国中央電視台製作のドキュメンタリー「ダライ・ラマ」が、東京・渋谷のアップリンク・ファクトリーで上映されている。「セブン・イヤーズ・イン・チベット」や、マーティン・スコセッシ監督の「クンドゥン」(来年公開予定)など、西側の視点からチベットの人権弾圧を告発する劇映画が相次いで製作されるなか、中国側の見方を伝える貴重な資料になっている。 九十分のドキュメンタリーで、中国では昨夏放映された。青海省の農家に生まれた少年が活仏に選ばれ、宗教教育を受けて、解放前のチベットの封建的農奴制度の指導者になるまでの過程を紹介。中国政府との平和解放協定締結、北京訪問、全国人民代表大会での活動なども取り上げる。 亡命前のダライ・ラマを知る関係者や学者らのインタビューも。ダライ・ラマの両親、毛沢東と会見するダライ・ラマといった史料的価値の高い映像も含まれている。 千五百円。三十日夜には、チベット亡命政府の現状報告書「チベットの現実」を翻訳出版した西依玉美さんのトーク付き上映(二千七百円)も。問い合わせは電話03・5489・****(会場)。 |
この記事を初めて見たとき、ちょっと我が目を疑ってしまった。これが本当に日本人の手によって日本国内で販売された新聞の紙面に載った記事なのだろうか。人民日報の日本語訳ではないのか。
朝日新聞によるとダライ・ラマは「解放前のチベットの封建的農奴制度の指導者」だそうである。いったいどういった見識をしているのか。1949年の支那共産党軍によるチベット侵略を朝日新聞は「解放」と言ってはばからない。あまつさえダライ・ラマは「封建的農奴制度の指導者」である。こいつらはいったい何を考えているんだろう。こういう連中を一般的には「キチガイ」とよぶ。
朝日新聞では、チベットと支那共産党とは「平和解放協定」を締結したことになっている。しかし、この協定にはどこにも平和も解放もない。そもそも一方的に武力により侵略し、数万人の殆ど無抵抗のチベット人を虐殺し、銃を突きつけながら民族の絶滅か奴隷化かの二者択一を迫ったあげくの協定である。そしてその後、この協定に基づき100万人あまりのチベット人が虐殺され、100万人のチベット人がインド・ネパールに亡命している。こんな物は平和でも解放でも協定でも何でもない。それを「平和解放協定」と言ってのける支那と朝日新聞に恐怖すら憶える。朝日新聞にとっては、共産主義を知らず宗教心のあつい人間は虫けら以下なのであろう。害虫のように駆除されてしかるべきだと思っている。では、満州事変・北支事変から続く日中戦争も、封建的軍閥や地主によって搾取されていた、薄汚く哀れな支那人農奴を帝国の手によって解放してやろうとしただけだと声を大にして言おうではないか。支那全土を帝国が支配していれば、文化大革命で3000万人も死ぬことはなかったし、チベットでも虐殺は起こらなかった。
虐殺と言えば、ナチスドイツと日本のお家芸のように朝日新聞は書き立てるが、近代史上、日本が組織的に非戦闘員を虐殺した事実はいっさい無い。朝鮮を併合してやった後も、もちろん朝鮮人を虐殺するようなことはなっかったし、台湾でもしかりである。ナチスドイツにしても虐殺した人数は多く見積もっても数百万人である。しかし、支那共産党やボルシェビキは数千万単位で自国の人間を虐殺している。数千人の間違いではない。本当に数千万人殺しているのである。我々の常識からでは想像できないほどの人数だが、これくらい殺していないと朝日新聞には支持されないらしい。
我々は、このような朝日新聞をこの美しい日本にのさばらせていてはいけない。我々も支那共産党が行ったように、朝日新聞と「平和解放協定」を結び、朝日新聞の病んだ精神を矯正し解放してやろうではないか。
ボルシェビキ・・・・・・・・・
中央集権的共産党組織を主張したレーニンを支持する革命的左翼。
メンシェビキ。 ▽《ロシア》Bolsheviki(=多数派)
■天猜人誤(平成十二年三月二十三日)
<<横山ノックよ、腹を切れ!!>>
元大阪府知事横山ノックは、強制わいせつの罪で起訴されている裁判の初公判で起訴事実を全面的に認めた。まったくはずかしいったりゃありゃしない。彼は現職の大阪府知事でありながら、あれほどの破廉恥な犯罪を犯して、しかもなお事実を認めず嘘をついていたのである。
横山ノックの辞職に伴って、府知事の再選挙が行われた。この費用は約20億円かかっている。彼は、個人的な犯罪のために、大阪府民に対し20億円もの損害を与えた。大阪府民は横山ノックに対し20億円の損害賠償請求裁判を起こすべきだ。
今回の公判で起訴事実を認めたと言うことは、やはり犯罪を行っていたのだろう。もし、本当はやっていないのににもかかわらず、実刑を免れるために認めたというのであれば、男として情けない。腹を切れ。
もし、本当はやっていたにもかかわらず、臆面もなくそれを否定し、あまつさえ被害者の女性を名誉毀損で訴えていたとすれば重大である。しかもそれが現職大阪府知事の犯行である。腹を切れ。
いずれにせよ、ここまで大阪府知事の権威を失墜させてしまった責任は横山ノックにある。彼は、その個人的な犯罪に対して責任をとることはもちろん、大阪府知事の権威を失墜させてしまったことにも責任をとらなければならない。人間としての、男としての誇りと尊厳が少しでも残っているのであれば、腹を切って死ね。
ここに至っては、生きていることだけで犯罪に等しい。
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