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■天猜人誤(平成十六年十月十六日)

<<国が萌えた>>

 本宮ひろしの「国が燃える」が休載になった。おそらく打ち切りだろう。南京大虐殺について否定的な意見など、10年前では考えられなかったから、全体としては少しずつ良い方向に向かっているのだろう。

 「国が燃える」「南京」というキーワードでぐぐってみると、ヒットするサイトのことごとくが事実のみを伝えるニュースサイトか、本宮ひろしに抗議するサイトばかりだった。で、本宮ひろしを擁護するサイトがないものかと探していたら、あったあったありました。「文学の遠吠え」というサイト。このサイトの掲示板に本宮ひろしを擁護する書き込みがある。なんだか本当に「遠吠え」なので悲しくなったが、この書き込みの中で「地方議員グループは大喜びだろうな。しみじみと貧しい国だな…」という意見があった。実は私も同意見である。まあ、政治家がこぞって一漫画家のフィクションストーリーに対して抗議する必要もないだろう。掲示板などで騒ぐのは結構だが、政治家が徒党をなして圧力をかけるのはいかがな物か。もっと他にすることがありそうな気がするが・・・。

 もともと、活字や漫画などプロパガンダの手段という側面を強く持っている。活字や漫画を読むときはフィルターがかかっていると言うことを念頭に置いて読まなければならない。

 ということで、アッサヒ新聞が大金持ちになったら壮大なプロパガンダ映画を作ります。

スーパープロパガンダ歴史大作
「真・パールハーバー」
〜あらすじ〜
大東亜戦争前夜。日本は、極秘に最後のハワイ国王の孫娘を女帝として擁立し、ハワイの独立を画策。そのハワイ国王の孫娘は、ハワイにある強制収容所で監禁されている。昭和16年12月8日、連合艦隊から発艦した攻撃隊がハワイの米帝海軍基地を急襲。ハワイ本島ではあらかじめ潜入していた忍者部隊が強制収容所を襲い、アメリカ警備兵を死闘を繰り広げている。

アメリカ兵はトンプソンで忍者部隊を迎え撃つ。忍者たちはマシンガンの弾を身をかわして避け、短身の日本刀でアメリカ兵を次々と斃していく。そして立ちはだかるのは身長2m40cmのアメリカ人ボクシングチャンピオン。忍者部隊の隊長は一人このボクシングチャンピオンと対峙する。そして、実はこの忍者部隊の隊長は、監禁されているハワイ王朝末裔の少女と将来を誓った中だったのだ。

ハワイ方面で先頭の火ぶたが切られたことに呼応して、インドではチャンドラが独立軍を挙兵。強力な日本軍の後押しを受けた独立軍は、英国軍をことごとく駆逐していく。

東南アジア各地でも、同じように独立軍が挙兵し、欧米の軍隊を駆逐し独立を手に入れていく。そして、欧米の支配時代、独立を目指して行方不明になってしまった人たちを捜索すると、至る所で大量に埋められた人骨が・・・・・。なんと東南アジア全域で20億人もの人たちが欧米列強によって虐殺されていた事実が判明するのだ!!


こんな感じかな?


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■天猜人誤(平成十六年九月十七日)

<<子供を殺すな>>

 悲惨な事件が後を絶たない。特に、子供が犠牲になる事件が多発し、また、子供が加害者になる事件も発生している。先日栃木県で発生した事件でも、幼い兄弟二人が犠牲になった。

 この兄弟の親は定職にも就かず、中学時代の暴走族仲間(後輩)の家に転がり込んで居候をしていた。居候されていた下山容疑者が、この居候を嫌って子供を殺したと自供している。本当の動機は今後の捜査を待たないとならないが、この居候が原因、もしくは遠因になっていることは間違いなさそうである。

 なぜ、この兄弟の親は居候を決め込んだのか?記者会見では「先立つものがなかったから」と言っていたが、なぜ仕事をしない。記者会見を見る限り、五体満足で普通の作業なら出来そうである。今日本には労働力不足で困っている会社や工場が多くある。仕事を選ばずまじめに働けば、最低限の暮らしをしていけるだけの収入は得られたはずである。この親は、子供を養うために本気で仕事を探したのだろうか。私には、どうしてもそうは見えないのである。

 また、この兄弟を殺害した下山容疑者にも、中学生と小学生の子供がいる。下山容疑者は自分の子供がもし殺されたなら、子供がどんな恐怖を味わうか、その事を考えなかったのだろうか?この容疑者にも小さい子供がいるが、同情をする必要はない。無抵抗の子供を二人も殺害したのだから極刑以外の選択をしないで欲しい。

 私にも、現在5歳の男の子と3歳の女の子がいる。とても仲の良い兄妹で、私が下の女の子を叱ると、上の子は「叱らないで、おねがい、明日からはちゃんとさせるから」と言って下の子をかばい、私が下の子を叩こうとすると、上の子は下の子と私の間に割って入り、身体をはって下の子を守ろうとする。

 この時期の兄妹は、このように上の子が下の子をかばい、面倒を見始めるころなのだ。無惨に殺された兄弟も、お兄ちゃんはとても面倒見が良く、いつも弟の面倒を見て、常に弟をかばっていたそうである。殺された状況はまだよくわかっていないが、もしかしたら、お兄ちゃんは命がけで弟を守ろうとしたのかもしれない。そういう状況になれば、きっと守ろうとしただろう。たとえそれがかなわぬ事とわかっていたとしても。幼い兄弟とはそのようなものだ。

 下山容疑者は、そんな幼い兄弟を、無惨にも殺害した。

 子供を殺すな。

 無抵抗の子供をなぜ殺す。どうしてそんなことが出来る。子供を殺す人間を、アッサヒ新聞は決して許さない。また、子供を育てる義務を履行しない人間も絶対に許さない。

 子供を殺すつもりで殺した人間は、無条件で死刑にするように法改正することを強く要望する。最近では虐待で自らの親に殺される子供も多くいる。このような虐待では、殺人罪に問われることはほとんどなく、傷害致死で片づけられ、数年から10年程度の懲役ですまされることが多い。これだけ虐待で殺される子供のことが報道されているのだから、全ての日本人は、子供に暴行を加えれば死んでしまうことを知っているはずである。であれば、虐待で子供が死んだ場合は、例外なく殺人罪で起訴して欲しい。子供に対する殺人罪は例外なく死刑にすべきだ。

 子供を育てる能力のない親からは子供を隔離し、国家が責任を持って育てるようにするべきである。国民には子供に教育を受けさせる義務があるが、その義務を履行することを待っているだけでは子供の犠牲が後をたつことはない。子供は国家の共通の財産であり宝であるという認識に立って、虐待歴のある親や、ある一定以上の収入のない親から強制的に子供を隔離し、国家が責任を持って育てる。育て方も、今までの孤児院のようなイメージではなく、全寮制の進学校のように、出来る限り手厚い教育を施すようにする。そして、国家や社会への帰属意識を向上させ、明日の日本を背負って立つ人材に育て上げるのだ。

 教育は国家の責務である。無駄な老人福祉施設や交流センター、誰も通らない高速道路、そんな物に回す予算があるのであれば、もっと子供の教育や保護に力を入れるべきだ。公立の幼稚園、小学校、中学校は、教科書代や給食費も含めて全て無料にする。先述した、子供を育てる能力のない親から子供を保護し、養育する施設を充実させる。

 何度でも言う。子供を殺すな。


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■天猜人誤(平成十三年九月十六日)

<<徹底的に>>

 世界貿易センタービルが燃えている姿を見て「スッゲー」と感じた。おそらくそこで今死につつある人がいるであろうことは容易に想像できたが、悲しくもないし、それを行った人間に対して憎しみもわかない。今死につつあるのは私の大事なものではない。ただ、目的を達成するために女子供を巻き添えにした連中には憤りを感じるが、それもたいしたものではないようだ。

 崩れゆく貿易センタービルを見ながら泣き叫んでいるアメリカ人の姿が映し出される。夜になって、ハドソン川の川岸に多くの人が集まって、鎮魂のろうそくを焚いてる。彼らにとっては自分の痛みなのだろう。アメリカという思想を共有している家族が、アメリカという思想に対抗する輩に突然殺されたのだから当然だ。愛する家族を殺されたのだから、殺した敵を血祭りに上げ、その敵の家族も同様に殺してやりたいと考えている。アメリカという思想に蹂躙され、殺されてきた哀れな後進国のことなど気にもとめない。これから無慈悲な攻撃が開始される。

 今回の攻撃で数千人が殺された。この攻撃に世界中が大騒ぎだ。たった数千人なのに。1994年には、ルワンダで80万人が虐殺された。これは、航空機によって一瞬に命が奪われるような人道的な殺され方ではなく、棍棒やナタによって殺されるという何ともアナクロで、非人道的ではあるが、非常に人間的な方法だった。しかし、この「事実」を聞いて悲しんだり、怒りに打ち震える先進国の人間がいただろうか。全くいなかったわけではないだろうが、その数はほとんど皆無に近い。先進国の人々にとってルワンダ人80万人の命など、スーパーの特売で売られているティッシュペーパー一箱分くらいの価値しかないのだ。かくいう私も、80万人もの虐殺に憤りは感じたが、それ以上でもそれ以下でもなかった。私にとってそれほど大事なものではない。

 今回のニューヨークの事件でも、同程度の感慨だ。殺された人々のことより、これからどのような戦争が行われ、世界がどのようになっていくのかのほうに興味がある。アメリカ人が何人死のうと、後進国が世界地図から消えようとそれはたいした問題ではない。

 人一人殺されることと、数千人が殺されることといったい何が違うのだろう?数が違うと言ってしまえばそれまでだが、殺される本人にしてみれば違いなどない。いや、数千人殺される方が孤独感がなくてまだましかもしれない。違うのは殺される本人ではなく、殺される人間を傍観している周りの人間の感情だけだ。死人に感情はない。感情があるのは生きている人間だけで、人間は感情の動物だから仲間が殺されれば憎しみがわく。しかし、仲間ではないものの悲しみにはきわめて鈍感だ。

 テレビやネットを見ていると、怒りに打ち震えている人々がいる。日本人でもだ。今回の事件を揶揄した発言があれば不謹慎だと言う。では、そういう人々は、ルワンダ人が80万人殺されたときには同じように怒りに打ち震えたのだろうか。ほとんどの人たちは、哀れなルワンダ人のことなど気にもとめていなかっただろう。人間の感情とはそういうものだ。この事件に対して強い怒りを持っている人たちは、ルワンダ人よりアメリカ人の命の方が尊いと言っている。

 それは、非常に正しいことだ。人間には、大事なものとそうでないものがある。日本人でアメリカ人を家族のように思っている人は少ないだろうが、アメリカという文化にあこがれ、多少なりとも親近感を持っているひとは多くいる。対してルワンダには何の感慨も持っていない。それが決定的な差なのだ。人は、大事なもののために涙を流し、大事ではないものには見向きもしない。日本人も巻き添えをくって殺されたのにという声が聞こえてきそうだが、今回死亡したと思われる日本人は「まきぞえ」なのだ。そもそもの標的ではない。また、アメリカというならず者国家の、しかもその中心に行くのだからその程度のリスクは覚悟して行っているのではないだろうか。

 もし、私の愛する家族が何者かに殺されたなら必ず復讐する。犯人が誰であろうと、その犯人を追いつめ、その犯人を育てた両親や一族も一緒に、考え得るもっとも残忍な方法で殺してやる。犯人の両親が、その犯行を知っていようといるまいと関係ない。犯人に関係しているものはすべて殺す。それを当然の権利だと主張する。今のアメリカ人の気持ちと全く同じだ。ふくれあがった憎悪は、誰にも止められない。そして、アメリカによって愛する家族を殺されたものは、アメリカに対して復讐するだろう。それが当然の権利であると主張して。

 憎しみは何も生まない。そんなことはみんなわかっているが、その憎しみを晴らさないわけにはいかないのが人間だ。また、中途半端に憎しみの種を残すと、それは必ず芽を出し、手がつけられなくなるほど大きくなる。人間である以上宿命といえる。お互い完全に気の済むまで戦争をしてくれることだけを願う。



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■天猜人誤(平成十三年九月十六日)

<<気分は戦争>>

 これから大規模な戦争が起こるのかと思うと、正直興奮してくる。歴史とは戦争のことだ。これから始まるであろう戦争で、新しい歴史が作られる。

 アメリカ連邦議会では、宣戦布告決議が可決された。宣戦布告には理由はいらない。大統領がこの決議を受けて、テロリストとテロを支援するシステム、そしてその国家に対して宣戦を布告すれば、何の問題もなく戦争を始めることができる。まず、その標的はオサマ・ビンラディン氏とその組織、そしてそれを支援しているとされるアフガニスタンになるはずだ。日本時間9月16日夜、パキスタンがアメリカ軍のパキスタン領空使用を認めたと報道された。準備は着実に整いつつある。

 中途半端に攻撃をすれば、また新たなテロを生むことをアメリカはよく理解している。であるならば、今回の攻撃は、史上まれにみるくらいの残虐非道なものになるだろう。哀れな後進国の女子供がいくら死のうと関係ない。五十数年前、帝国に対して行ったように、焦土化作戦を実施する。アフガニスタンの人口を半減させ、完全に戦意を喪失させ無条件降伏させる。そしてアメリカ軍の軍政下に置き、経済援助をしながら「君たちは悪い為政者にだまされていた。アメリカが君たちを救ってあげたんだ」と洗脳するにちがいない。

 攻撃はF111やF117によるピンポイント爆撃といったせせこましい攻撃はなしだ。B52の大量投入による絨毯爆撃。対空砲の届かない高々度から大量の爆弾をばらまく。アフガニスタンの建築物は石造りで、よく燃える家財道具も少ない。焼夷弾はあまり役に立ちそうにないから、ありったけの通常爆弾を落とすだろう。町にあるすべての建物は破壊され、そこにいた人間は肉片に変わる。アメリカは平等を重んじる国だ。軍人も民間人も、男も女も大人も子供も、すべての人間に平等に死を与えるだろう。

 後進国の人々の悲痛な叫びなど、アメリカ人の耳に届くことは決してない。身内を殺され、怒り狂った灰色ヒグマは、アフガニスタンのすべての国民の血を吸ってもその怒りを収めることはないだろう。国際テロネットワークを支援するとされる国家、リビア、イラク、北朝鮮、キューバ、シリア、イラン、イラク、リビア、スーダンをも標的にするかもしれない。いや、標的にする可能性は極めて高い。アフガニスタンを焦土と化しても、それらの国々のアメリカに対する憎しみは大きくなるだけだ。アメリカに対する憎しみが小さくなることなど決してない。今回のテロは、これからのテロ実行に非常によい見本を提示した。もし、中途半端にテロの温床を残すと、アメリカは毎年数千人がテロの犠牲となるような国になるだろう。そうすればアメリカの国力は衰え、アメリカの恐怖におびえていた国々はナショナリズムが台頭し、内戦状態になる。また、隣国と戦争状態になるかもしれない。丁度ソ連が崩壊した直後の東欧のように。

 国家にとって唯一絶対の正義は、「国民の生命と国民の財産を守る」ことである。アメリカはその為であればどんなことでも躊躇なく実行する。建国以来彼らは常にそうしてきた。他国、特に文明国以外の人間の命など、マグロ漁で一緒につり上げられてしまうイルカの命の100万分の一程度にしか思っていない国だ。アフガニスタンやその他の後進国を世界地図から消し去ることなど気にもとめない。

これから世界はおもしろくなる。


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■天猜人誤(平成十二年七月二十八日)

<<朝日は馬と鹿の放牧場>>

記者だって気に入られたいけど… 《記者席》  (斜体部asahi.comより引用)

首相に質問する時は、かなり緊張する。どうしたら最も効果的な質問ができるか。「当番」の前日は、おふろやベッドで考える。それでも、機会がなくて質問できずに終わることも多い。


お前は記者失格だ。「機会がなくて質問できずに終わることも多い。」のなら記者なんかになるな。どうせ質問してもトンチンカンな質問しかできないんだろうが、あげく、首相が語ったことの都合の悪い部分だけ切り貼りして真意をねじ曲げて報道するくせに。この記事を読むと、あれほど朝日新聞が記事を捏造し取材対象の真意をねじ曲げて報道するのは、作為的に行っているのではなく、ただ単に記者に質問する能力と話を聞く能力がなく、足りない脳味噌に本当にそう伝わっているだけなのかもしれないと思えてくる。

「僕が話しやすい雰囲気をつくるのも君たちの仕事だ」。森喜朗首相は先日、首相担当記者を集めてこう説いた。首相は「円滑にやれるようにと話した」というが、記者の言い分はほとんど聞かず、アメとムチに冗談をまぶしたような首相の話しぶりに、何ともいやーな感じを受けた。


総理の言い分も聞かず、「オフレコ」だといった総理の話を何の躊躇もなく記事にしたのはどこのどいつだったか。ちなみにこのとき森首相は、「今の話はオフレコだからな。もし記事にするんだったら全部載せろよ」と言っている。にもかかわらず、朝日新聞は総理の話の一部分だけを切り貼りして新聞に載せてしまった。これでは森総理ではなくても怒るだろう。産経新聞が総理の話を一言一句漏らさず記事にしていたのとは大きな違いだ。だいたい「いやーな感じ」とはどんな感じだ。具体的に書け。数ヶ月前の天声人語に「何とも言えない表情と記事に書いたら先輩に怒鳴られた。何とも言えない表情とはどんな表情だ?新聞記者が主観でものを書くなと」といった内容があったがあれはウソか?それとも「何とも言えない」はだめで「いやーな」は良いのか?私にはどちらも非常に主観的に思えるのだが気のせいだろうか。それとも朝日新聞の記者諸子はこの違いが明確に解るのだろうか。是非とも一度ご教示願いたい。

私だって、取材相手に気に入られたい。森首相が言うように「かわいいところがあるじゃないか」と思われたい。だが、首相の言い分だけを聞き入れてしまえば、「なれ合い」でしかない。


当たり前だ。このバ○が。だいたい記者会見や取材というのは、対象者の言い分を聞くだけの場所でもないし、まして記者の言い分など聞くところではない。取材対象の話を記録して、そして鋭い質問を行うところだ。それが出来て初めて新聞記者足り得るんじゃないのか。そんなことも出来ないのに新聞記者が出来るとは、朝日新聞は官邸番の記者もアルバイトなのか?

そんなことを考えながら森首相の顔をじっと見ていたら「なんか文句がありそうな顔してるな」と、席を立たれてしまった。


どうせ文句のありそうな顔をしてにらんでいたんだろう。仕事に感情を持ち出すとは朝日新聞のレベルは相当に低い。しかも、そのことを記事にしてしまうなど狂気の沙汰としか思えない。例えば一般企業において対外的な仕事をしていたとしよう。相手がお客様であろうと取引先であろうと下請け業者であろうと、対外的に個人の感情を表しているようではその人間の評価は低くなる。そんな当たり前のことも朝日新聞では出来ないらしい。クソガキの集団か?

総理大臣という立場で発する言葉は時に「圧力」となり、じわりと効いてくる。記者経験のある首相は、十分わかっているだろう。


総理の言葉に圧力がない方が問題だ。一国の意志を代弁した言葉なんだから圧力があって当たり前。朝日新聞はそんなことも解らないのか。悪平等主義もここに極まれりといった感じだ。平等主義の朝日新聞は、例え総理大臣でも特別に圧力のある言葉を発してはいけないとでも言いたいのだろう。この程度の圧力も絶えられないんだったら担当記者なんかするな。他の新聞社(一部を除く)はちゃんと仕事をしているぞ。

こちらも的確な質問が必要だけれど、意見も聞いてくれれば、理解は深まるのにと思う。


まず、お前が森総理の言葉を良く聞いてから言え。「今の話はオフレコだからな。もし記事にするんだったら全部載せろよ」という小学生にでも解るような日本語も理解できないくせに、自分たちの言い分だけは聞き入れろとはいったい何様のつもりだ。お前らみたいな礼儀知らずの人間がこの日本を駄目にしているんだ。

担当記者は敵でも味方でもない。ましてやばかじゃないんだから。(高橋純子)

(2000年7月13日付朝日新聞朝刊より)


はぁ?ばかじゃない?ばかじゃないんだったらこんなふざけた記事を全国版の朝刊に載せるな!!


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■天猜人誤(平成十二年七月十八日)

<<子殺し親殺し>>

 また嫌な事件が発生した。保険金目当てに我が子を殺そうとした母親がいたのだ。この母親は、数年前にも自らが腹を痛めて産んだ息子を殺した疑いももたれている。

 親は本能的に子供を護るものであるという。しかし、ここ数年、実の親が営利目的で我が子を殺すという事件がいくつも発生している。一ヶ月ほど前には、保険金目的で二歳になる我が子を殺した母親に懲役13年の判決が出ていた。甘いにもほどがある。

 古来、肉親同士の殺人は重罪とされてきた。特に、儒教の影響を受けている地域では親殺しは最も重い罪の一つとされる。この日本でも例外ではなく、戦後しばらくまで「尊属殺人罪」という刑罰が刑法にあった。これは、自分の尊属(親や祖父母)を殺害した場合、いかなる理由があろうとも無期懲役か死刑しか無いという厳しいものであったが、ある事件をきっかけに削除されたのだ。

 その事件とは、ある女性が自分の実父を殺害したというものだった。この家庭は父子家庭で、父一人、娘一人で貧しい生活をおくっていた。父親は定職に就かず、昼真から酒浸りで、ことあるごとに娘に折檻をくわえていた。そして、とうとうこの父親は実の娘に手をつけたのだ。娘が10歳の頃だった。それから娘は数え切れないほど実の父親から陵辱をうけたのである。さぞ辛かったことだろう。そして実の父親の子供を身ごもった事もあった。さすがにその時は堕胎したのだが、それからも父親からの陵辱は絶えることがなかった。

 しかし、娘も年頃になり、この娘と結婚したいという男性が現れた。この男性が娘の本当の境遇を知っていたかどうかは定かではないが、娘を受け入れ、護っていきたいと申し出たのだ。娘はその申し出をうけ、結婚することを父親に申し出たのである。そのことを聞いた父親は激怒して、娘に激しい暴力を振るった。無抵抗の娘はただ泣き叫び、暴力に絶えることしかできなかったのである。そして、父親が泥酔して眠っているところを殺したのだ。

 当時の法律では、この娘には無期懲役か死刑かの選択しかなかった。しかし、このような境遇で父親を殺害したことのついては、情状酌量の余地があまりにも大きすぎるという議論がおこり急遽法改正の運びとなったのである。そして、「尊属殺人罪」自体が、刑法から削除されたのだ。

 子殺しで同情を受けた事件もあった。数年前、息子の家庭内暴力に絶えかねた父親が、我が子を殺したというものだ。

 息子の暴力は中学生の頃から始まった。その暴力は日に日にエスカレートし、ついに母親と姉は別居することとなり、息子と父親の二人の生活が始まった。父親は、この悩みを教育問題専門のカウンセラーに相談していた。そのカウンセラーは、息子の暴力に反発するのではなく、暴力に訴えなければならない息子を受け入れることが重要であると説いた。

 この父親は、そのアドバイスを忠実に実行し、召使いのように息子に奉仕した。息子が理解してくれることを願って。しかし、息子の暴力が治まることはなかった。そして、父親は息子を殺したのだ。

 上記の2事件に共通するのは、責任と義務を履行する能力のない父親の姿である。

 親殺しも子殺しも、どちらもよくないことだが、どちらがより悪いかと問われれば、いかなる場合でも子殺しの方が悪いと答えるだろう。

 日本の刑法も子殺しの罰はなかったが親殺しの罰があったように、儒教思想の影響を受けた地域では目上の人に対する罪はより重いとされてきた。支那などそれは顕著で、親に対する犯罪は非常に重く罰せられるが、夫のためなら妻を、親のためなら子供を殺しても、さして問題にはされなかった。三国志の中では、戦に敗れて逃げてきた劉備玄徳をかくまった農家の主人が、自分の新妻を殺して料理し、もてなしたというエピソードが美談として書かれているくらいである。ちょっと日本人の感覚では理解しがたい。

 親は子供に対して責任を持たなければならない。これは、自然にわき出てくる本能としての愛情の他に、社会生活を営む上で、子供に社会性を与える為の責任や義務と言うことだ。そして、その責任や義務を言うものは、社会生活を営む中で後天的に学習し、身につけていくもである。しかるに、現在はその責任や義務といった物が疎んじられ、なおざりにされてしまっている。

 先述した、家庭内暴力の息子を殺した父親はある出版社に勤めていた。出版社の規模としては小さいが、その業界では名の通った、ガチガチのアカ出版社だ。そして、この父親も精力的に共産主義を広めていた闘士の一人なのである。

 責任や義務を否定するアカい連中には、子供を育てるための責任や義務を果たすことが出来ないと言う良い事例である。そして、そういったアカい連中の多くは、今現在も朝日新聞を代表とするサヨクメディアの中に多く存在し、無責任主義を広めようと尽力しているのだ。そして、多くの人間がそのサヨクメディアに洗脳され、この世に責任や義務といった物があるということを知らずに育ってしまった。保険金目当てに我が子を殺した母親もその一人だろう。

 人間は、本能だけでは親になることは出来ない。社会の中で親としての責任と義務、そして「覚悟」を身につけなければならないのだ。その覚悟とは、子供を社会性のある人間に育てることができなかった場合には、自らの命を持って責任をとると言うことも含まれる。先述した息子を殺した父親も、息子を殺すのであれば自分も自決すれば良かったのだ。そんな息子に育てたのは、全て親の責任である。親であるなら責任をとるべきだろう。

 そして、抵抗の出来ない子供に暴力をふるい、あまつさえ陵辱までする親は殺されて当然といえる。保険金目当てに我が子を殺すような親に至っては、全く理解する余地はない。鬼畜生にも劣るとはこのことだろう。

 営利目的で実の子を殺した場合には、問答無用で死刑にすべきである。営利目的で我が子を殺しても懲役13年程度で済まされるなど、決して許されて良いはずがない。


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■天猜人誤(平成十二年六月二十五日)

<<総選挙狂想曲>>

 平成12年6月25日午後9時30分、テレビは選挙速報ばかり。一週間前に自民党圧勝という予測が流れたせいか、自民の票ののびが悪い。「こんな非道い政権を存続させて良いのか」と、公共の電波で堂々としゃべり出すコメンテーターもでる始末。マスコミ報道は反自民一色に染まってしまっている。よくこのような状況で自民党は過半数近くまで議席を取れるものだと感心する。それだけの力が自民党にはあると言うことだ。

 TBSの番組で、自民党の小泉氏と筑紫哲也が話をしていた。小泉氏が「森内閣の支持率は非道く悪かったが、選挙結果がそう悪くないのはどういうことだろう。この辺りを調査するのも良いかもしれないな」という意味合いのことを言ったところ、筑紫哲也はなんと、「選挙結果の方がおかしいんですよ」と言っていた。日頃は民主主義を擁護されている筑紫哲也の言葉とは思えなかったが、これが筑紫哲也の正体と言うことだろう。自分の主張に沿った結果だけが民主主義で、それ以外の結果は民主主義に反する行為。つまり、自分自身のみが民主主義の権化であると言っているのだ。

 「昔は剣を使って政治を変えていた。しかし、今はその剣は票に変わっている。一票というのは非常に重要な物であるから、是非とも選挙に言って欲しい」と、ある政治評論家が選挙前に言っていた。確かにその通りだろう。暴力革命が現実味を失ってしまった現代に於いては、「一票」が「剣の一振り」に等しくなっている。民主主義において、一票という物は非常に重要な意味を持っているのである。しかし、本当にその認識があるのだろうか。

 一週間前のマスコミによる投票予測では、約40%の人が態度を決めかねているという結果が出ていた。いわゆる「浮動票」だ。もちろん、この中には色々と調べて、最終的にどの候補にしようか推敲を重ねている人もいるだろうが、多くはそれほど政治に興味が無く、直前の新聞やテレビ報道に流されて投票を決めている。少なくとも私の個人的な感触ではその傾向が強いように見受けられる。

 ということは、投票する人間の40%近くは、その凶器にもなりうる「一票」の使い方を知らないと言うことになる。何となく報道の雰囲気で投票を決めると言う行為は、何となく持っている「剣」を隣にいるおっさんに振り下ろして殺してしまう、という行為に等しいのだ。民主主義において選挙とは、その国を繁栄させることも滅亡させることも出来る恐ろしい物である。その40%が、選挙直前のアカいマスコミ報道に流されて投票してしまうのである。

 森総理大臣が選挙に興味のない人は眠っていて欲しいと発言したが、全くその通りである。政治やこの国の行く末に対して殆ど興味が無く、何の責任も感じていないような連中に私と同じ一票が与えられているのかと思うと腹立たしい限りだ。

 ASSAHI新聞は普通選挙の廃止を求める。まず、納税していない者には選挙権を与えない。これは最低条件である。次に、納税額によって投票数を増やす。多く納税して社会に役立っている人には多くの投票数が与えられるのである。そして、選挙権審査を行う。選挙権を与えるにふさわしいかどうかを筆記試験等によって審査するのである。試験の内容は主に一般教養を審査する。例えば、半世紀前に日本とアメリカが全面戦争をしたことすら知らないような人間に、はたして選挙権を与えてやる必要があるのだろうか。

 最後に繰り返しになるが、民主主義=普通選挙である。その普通選挙の結果が「おかしい」と言うことは、とりもなおさず「民主主義はおかしい」と言っているのと同じである。筑紫哲也よ。選挙結果を否定するようなら明日から民主主義を擁護するような発言はやめろ。民主主義を否定し、天皇陛下に忠誠を誓うならASSAHI新聞はお前を暖かく迎えてやろう。


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■天猜人誤(平成十二年六月二十三日)

<<沖縄慰霊の日によせて>>

 本日6月23日は、大東亜戦争末期の沖縄戦で帝国軍が組織的に壊滅した日とされている。6月23日、沖縄方面軍牛島司令官は「県民を護り、最後まで戦え」と厳命を残し自決した。この沖縄戦で、12万人もの沖縄県民がアメリカ軍の手によって虐殺され、10万の帝国軍将兵が戦死した。

 アメリカ軍の攻撃は凄まじいものであった。上陸に先んじて、ありとあらゆる艦砲によって沖縄の拠点を攻撃。その艦砲射撃によって沖縄の海岸線の形が変わったくらいだ。そして上陸後は、無抵抗の民間人に対する無差別虐殺を行った。洞穴に隠れている民間人に対して手榴弾を投げ込む、火炎放射器で焼き殺すなど、その残虐さは人類の文明史上最悪と言って良いほどのものだった。

 55万人の兵力を投入し絶対的に有利なアメリカ軍に対して、我が帝国軍は10万人程度の戦力にも関わらず十分に奮戦した。しかし、その抵抗は、アメリカという暴虐の前についに力尽きることとなるのである。

 本日の朝日新聞の社説に以下の文章が載っていた。

 本土の「捨て石」とされ、「すべての県民が遺族」ともいわれる沖縄は、昭和天皇が戦後訪ねることのできなかった、ただ1つの県である。「神の国」「国体」「銃後」などの発言を続けた森首相は、そこでどのような感慨を抱くのだろうか。

 いったいこの阿呆はなにを言っているのだろう。いつ本土は沖縄を「捨て石」としたのか。当時命を懸けて沖縄を守るために戦った兵士の方々に対して、これほど無礼な言葉があるだろうか。「捨て石」と言うのであれば、まずその「証拠」を提出するのが筋というものだろう。帝国軍が沖縄を「捨て石」とすると方針を決めた証拠がいったいどこにあるというのだ。ASSAHI新聞はこの阿呆に激しい怒りと悲しみを禁じ得ない。

 アメリカ軍が沖縄をねらっていることは、比較的早い段階から予測されていた。帝国軍はそれに対応するために、沖縄県民の本土への疎開、沖縄駐留部隊の増強を図ってきたのだ。そしてついに、昭和20年4月、アメリカは55万の大兵力を沖縄に上陸させた。

 沖縄を防衛していた帝国軍は本当によく戦った。兵員数で約6倍、装備に至っては天と地ほども差のあるアメリカ軍に対して、沖縄という小さな島で3ヶ月間も組織的に抵抗したのだ。組織的な抵抗が終わっても、ちりぢりになった友軍はさらに2ヶ月間以上も散発的な抵抗を続けた。沖縄の帝国軍が正式に降伏したのは昭和20年9月7日の事であった。沖縄守備隊10万人のほとんどが戦死していた。

 そして、沖縄の守備隊だけでなく、日本本土からも二度と帰らぬ事を決意した将兵達が沖縄を目指した。菊水作戦である。

 昭和20年4月5日、菊水一号作戦が発令された。翌6日、戦艦大和を中心とする、軽巡1、駆逐艦8の第一遊撃部隊、そして第二水雷戦隊が徳山沖から沖縄に向けて出発した。全員、二度と帰らぬ事を決意して。

 菊水一号作戦は、アメリカ機動艦隊より発進した艦載機による猛攻によって、沖縄にたどり着けぬまま失敗に終わった。大和をはじめ、多くの艦艇が撃沈された。第一遊撃部隊の司令伊藤大将(特進後)は、大和轟沈の直前、艦橋の全員に敬礼をし長官室に入った。艦と運命をともにしたのだ。また菊水一号作戦では、大和を中心とする遊撃部隊に呼応して、陸海軍の多くの特攻機がアメリカ艦隊に体当たりを敢行した。

 菊水作戦は十号まで行われ、数千名の将兵が特攻によって英霊となったのだ。沖縄を護るために。

 菊水作戦で帝国軍は、その持てる戦力のほとんどを出し切っていた。もう戦闘機も爆撃機もない。艦艇に至っては旧式化した戦艦長門一隻と、駆逐艦が数隻残されているのみだった。もし、アメリカ軍が本土上陸を行えば、沖縄で行ったような帝国軍の組織的な抵抗など望むべくもないというのが実状だった。日本は沖縄を護るために、持てる戦力のすべてを「捨て石」として使ったのである。

 以上のことをみても、日本が沖縄を「捨て石」としたと言うことが誤りであることがわかるだろう。沖縄の人たちよ、朝日新聞やサヨクメディアに騙されないで欲しい。日本は決して沖縄を見捨てなかった。本土防衛のための戦力をほとんど全て沖縄のために投入したのだ。そこには、たとえ本土の防衛ができなくなろうとも、今まさに虐殺されつつある沖縄県民を放っておくことはできない、少しでも沖縄県民を助けたい、そういう先帝陛下の悲痛な願いがあったことは言うまでもない。


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■天猜人誤(平成十二年六月十九日)

<<総選挙の争点たる物>>

今度の総選挙に於いて、色々と争点が取りざたされている。朝日新聞などのサヨクメディアと野党は、森総理大臣の「神の国」発言をことさら取り上げ、ひたすら争点の矮小化を図る。与党はといえば、お決まりのばらまきによる景気対策だけを訴える。

 「選挙とは税金の使い方を決めることだ」と、歴史上の人物が言った(確か・・)。政府には、確かに富の再分配という重要な機能があるし、それを追求しなければならないのもわかる。であるならば、与党にしろ野党にしろ、もっと具体的に予算の使い道や今後の税制改革に関して議論を深めるべきではないのか。現在の税制議論は、それほど深く行われているとは思えない。朝日新聞に至っては、税制という重要な争点を忘れたかのように「神の国」にこだわってしまっている。もう病にかかっているとしか思えない。

 しかし、ASSAHI新聞は今回の総選挙の争点として、あるひとつの問題を提起したい。それは「治安問題」である。「治安」などと言うとすぐに「治安維持法」を思い出すむきもあるが、今回問題とするのは政治的な物ではなく、身近な犯罪に関する治安問題である。

 日本は世界中で最も治安の良い国の一つと言われる。単位人口当たりの凶悪犯罪発生率は確かに世界で最も少ない部類に入る。しかし、十年前に比べると外国人犯罪が圧倒的に増えているし、日本人による凶悪犯罪の低年齢化も進んでいる。凶悪犯罪は、いつ自分や家族の身に降りかかってもおかしくないのである。

 景気が回復し、給料が増えた。ボーナスも多く出たので、奮発して妻と子供にプレゼントを買って、彼らの喜ぶ顔を想像しながら帰宅する。すると、そこには無惨に殺害されている妻と子の骸があったとしたらどうだろう。このようなことが起きたとしても、景気回復を優先した方が良かったと本当に思えるだろうか。

 凶悪犯罪は、ささやかな幸せを守って生きている人々の生活を台無しにする。どんなに裕福な生活を送っていたとしても、ひとたび凶悪犯罪の餌食となり、その生命を失ってしまっては元も子もなくなってしまうのである。このような凶悪犯罪を撲滅しなければならない。

 まず、現実に凶悪犯罪が発生したときの対応の強化である。現在凶悪犯罪で服役している囚人の50%以上が、二度目の服役である。つまり、逮捕された犯罪者の半分以上は、出所した後再度犯罪を犯している。しかも、三度目四度目の服役囚もかなりの割合で存在しているのである。まず、この現状を改善しなければならない。いささか対処療法になるが、凶悪犯罪に対する厳罰化を早急に実施する。

 例えば、強盗殺人に対する罰は死刑か無期懲役しかない。にも関わらず、同じ強盗殺人で二度も逮捕される人間が現実に存在する。これは、最初の強盗殺人で無期が確定したにもかかわらず、20年程度で仮釈放が認められるからである。もし、強盗殺人に関する罰が死刑か終身刑しかなかったなら、年間何人かの人が殺されずにすむのである。また、強姦殺人に至っては、その罪自体がない。女性を強姦して殺したとしても、強姦致死か、強姦と殺人とになってしまう。強姦致死は3年以上無期懲役である。女性を強姦して殺害したとしても無期懲役にすらならないケースがある。ちなみに強盗致死が無期か死刑しかないことに比べると、日本の刑罰が強姦に対して実に甘いのがわかる。

 このような凶悪犯罪を犯した連中は、二度と一般社会に出ることが出来なくしてはどうか。もちろん、強姦や強盗などの凶悪犯罪は問答無用で死刑にするのが理想的なのだろうが、現在の日本ではそれは難しい。しかし、強姦や強盗を働いて、さらに被害者を殺害するようなことがあれば、これは死刑以外に選択肢を無くすることは出来るのではないだろうか。おそらくこの程度のコンセンサスなら既に国民の間には醸成されているはずである。反対するのは朝日新聞と自称人権団体だけだ。言わせておけばいい。

 また、少年法を改正して、18歳以上は成人として扱うようにする。それに、現在の刑罰を科すことの出来る最低年齢を16歳から14歳程度まで下げる。30年近く前に関西で発生した三菱銀行強盗殺人事件の犯人は、15歳の時に若い女性(確か20歳前後)を殺害して金品を強奪しているにもかかわらず、たった一年足らずの少年院送致となっていただけなのである。そして15年後、猟銃を持って銀行に押し入り、警官や人質数人を無惨に殺害するに至っている。現在の少年法では16歳未満であれば、どんな無惨な方法でどんなに多くの人間を殺害しても、最高で2年程度の少年院送致にしかならない。これではあまりにもひどすぎる。14歳以上であれば、犯罪の重大性によっては成人と同じく刑事処分とするのべきである。

 犯罪の抑止も重要である。今の子供は親からも教師からも叱られた経験のない者が多い。つまり、この世に「罰」があると言うことを知らないのである。彼らに、この世には恐ろしい罰があると言うことを見せつける必要がある。そこで役に立つのが死刑囚だ。死刑は原則として公開とする。東京ドームに特設セットを設け、数万の観衆が見守る中、死刑囚が犯した犯罪と同じ方法で死刑を執行するのである。もし、被害者を焼き殺していたとすれば火破り。撲殺なら撲殺。溺死なら溺死といった具合である。そして、地方の学校は修学旅行でこの光景を見学にくるのである。こうすれば、凶悪犯罪にはそれ相応の「罰」が下されるということが理解できるだろう。

 次に、犯罪を未然に防止しなければならない。この為には、まず「徳」を重んじる社会風土を醸成しなければならない。教育勅語の復活である。また、「恥」の意識も重要である。「人様に対して恥ずかしい行為は出来ない。こんなことをすれば家の恥だ。」こういった意識があれば、人は犯罪を犯すことを躊躇する。犯罪者に欠けている決定的な意識である。そのために隣組や五人組を復活させる。町内会組織を強化し、その町内に不審者の存在する隙を与えない。また、町内の他の人たちとふれあうことによって、自らが他の人に見られているという感覚を身につけるのである。不審者のピックアップも出来る。町内から犯罪者が出れば、その人間が所属していた隣組や、町内会の名簿を公表するようにする。こうすれば、同じ組織から犯罪者を出すことのないように意欲的に取り組むはずである。

 提案はまだまだあるが、とりあえず上記のことを実施するだけで、かなりの凶悪犯罪を防ぐことが出来るのではないだろうか。国民の安全を護ることは、非常に重要な国家の責務である。このことを選挙公約にする政党が一つくらいあっても良い。


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■天猜人誤(平成十二年六月五日)

<<何もかも矮小な朝日新聞>>

6月5日の朝日新聞社説より

■「国体」発言――森首相の体質が見えた(社説見出し)

 どういうことかというと、「神の国」や「国体」という言葉を使う森総理大臣は、「そのような言葉をいとも軽々しく発する森首相の思考経路」に問題があり、「天皇を中心とする神の国」という発言や、「いいところもある」と強調した教育勅語への親近感との共通性である。首相にとっての国家とはまさに、国体という言葉で表されるもの」で、「危うい体質」なのだそうだ。

 ちなみに「国体」と言う意味を辞書で調べてみると「@ 主権の所在によって区別される国家の形態。 A 「国民体育大会」の略。」(岩波国語辞典)となる。いくらトチ狂った朝日新聞でも、国民体育大会に噛みついたりはしないだろうから、森総理大臣が意図した意味は「主権の所在によって区別される国家の形態」と言うことになる。では、森総理大臣が意図した国体とはいったいどういうことだろう。朝日新聞の社説から見ていこう。

 「「どうやって日本の国体を守ることができるのか」。奈良市での演説会で首相は、民主党が共産党と連立する可能性に触れ、その共産党は天皇制や自衛隊、日米安保を認めていないと指摘するなかでこう述べた。」 とある。

 つまり、「共産党は天皇制も認めない、自衛隊も認めない、そんな共産党と連立を組んで、今の憲法第一章にある「天皇」と、自衛権を放棄していない憲法第九条に基づいた、この日本という象徴天皇民主主義体制を、どうやって守ることが出来るのか」と森総理大臣は言ったのだ。森総理大臣の言葉を、普通の知識で普通に解釈すれば、これ以上にもこれ以下にも理解することは出来ない。つまり、憲法を擁護しているのである。なんと、その言動から国粋主義者かと思っていた森総理大臣も、実は「戦後民主主義」に毒されていたのか。

 しかし、朝日新聞は「国体」という言葉尻をとらえて、総選挙の争点を矮小化させようとする。まあ、朝日新聞の読者など、難しい政治や経済の話は、その脳味噌の理解力を遙かに越えているので、選挙の争点にしたくても出来ないと言うのが実際のところなのだろう。そのことを朝日新聞はよく知っているため、このようにひたすら争点の矮小化に走る。「「国体」という言葉は軍国主義ですよ〜〜。こんなことを言う政治家を許していたら、あなたは徴兵されて、特攻兵にさせられますよ〜〜(私は良いことだと思うが・・)」とうそぶく。普通なら、こんなばかげた話を信用する「大人」はいないと思われるが、いかんせん、全国には840万人もの知性も判断力もない朝日新聞の読者が存在し、あまつさえ我々と同じ「選挙権」を持っているのである。これが民主主義の限界だ。

 現在では、選挙権は満年齢で20歳になれば誰でも自然に発生してしまう。ASSAHI新聞の読者であろうと、判断力のかけらもない朝日新聞の読者であろうと、その一票の重みは同じなのである。これを「悪平等」と言わずになんと言おう。

 また朝日新聞は「国体は、軍の対外侵略と、警察による国内治安の支えでもあった。」 と言い、「国体」と言う言葉が軍国主義的に使われたから良くないと言う。ならば戦前最も強硬に戦争を煽動していた朝日新聞は、その名称から戦争を連想させられる。だから今の民主主義の世の中にはふさわしくない、とも言える。鎌と金槌はプロレタリアート独裁と大粛清の象徴だから、農作業や土木作業にも使ってはいけない。寺院の卍のマークは、ナチスのハーケンクロイツを逆さにしただけだから使ってはいけない・・・などなど・・・。朝日新聞的な思考をすると、おちおち発言も出来なくなる。まさに「言葉狩り」だ。

 ばかばかしくて付き合っていられない。

 朝日新聞は森総理大臣の「資質」をよく問題にする。このような発言をする政治家は資質がないそうだ。では、森総理大臣の資質を問題にする朝日新聞には、新聞社たる資質があるのだろうか。

 例えば、酔っぱらいの薄汚いおっさんが、ズボンを半分ずらし自分の一物をぶらぶらさせながら、「森総理は神の国ゆーたり国体ゆーたりしてんねんぞ。資質に問題あるんちゃうんか?」と迫ってきたらどうだろう。あなたは、その酔っぱらいにそんなことを言う資質があると思うだろうか。

 朝日新聞は痴漢の団体である。先日もまたまた朝日新聞の記者が、自分の一物をさらし女性に迫って逮捕された。「舐めてみるか〜〜」と言いながら迫ったとの情報もある。これが一般的な朝日新聞の体質なのだろう。ちょっと前にも同じような行為があったばかりなのに、この新聞社には「学習」や「教訓」と言った言葉は無縁のようだ。新聞社、いや、人間としての「資質」が問われている。

 さらに、社説の最後は「時代錯誤の発想を引きずる首相の発言に振り回されるのは、なんとも情けない。」 でくくられている。おいおい、なに訳のわかんないこと言ってるんだか。振り回されているんじゃなくて、お前が勝手に振り回っているだけだろう。だれも振り回されちゃいないよ。まさに餌の周りをくるくる回っているハエだな、朝日新聞は。

 おそらく、朝日新聞の体質は前述の新聞記者の一物と同じように「矮小」なのだろう。「矮小」なものからは、「矮小」な発想しか生まれない。朝日新聞には抜本的な「手術」が必要なようだ。

*斜体部分、朝日新聞社説(6/5)より引用


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■天猜人誤(平成十二年五月二十九日)

<<世界から紛争と抑圧をなくす為には>>

28日の朝日新聞の社説は「■《世紀を築く》紛争と援助不信の根を断ち切ろう 」と見出しを打っていた。

 紛争を抱えている国への援助は、紛争の拡大の原因ともなると朝日新聞は以下のように述べている。

もちろん、そのような活動はすぐに成果が出ない。ひとりよがりな支援や安易な介入は、事態をこじらせる恐れさえある。  現地に出かけ、紛争の沈静化のために努力しているNGOの関係者らに学ぶ。不信と憎悪の根を断ち切るためには、そうした謙虚な姿勢を忘れてはならない。

 この社説の中で紛争地域としてあげられているのはインドネシア、カンボジア、スリランカ、コソボ(ルーマニア)、フィリピン、ミャンマーの六カ国だ。もちろん紛争の原因としては「多民族」「多宗教」があげられている。その国の主流派になった民族や宗教が、それ以外を差別排斥しているということだ。これに対して非主流派の人たちが武器を持って抵抗を繰り返している。

 しかし、ある意味自分の民族のために武器を持って戦えると言うことは、まだ幸せなのではないかと思う。この世界には、抵抗することすら出来ないほど、虐げられた民族がいるのだ。それがチベット族である。

 チベットは1940年代までは独立国だったが、突如侵略してきた支那共産党軍によって占領されてしまった。そして、1951年、チベットと支那の間に「チベットの平和解放に関する協定」が結ばれた。支那と朝日新聞に言わせれば、「専制的独裁によって、民衆を農奴として支配してきたダライラマを支那で再教育し、奴隷同然だった民衆を解放するための協定」と言うことになる。

 そして、その協定に基づいて約120万人のチベット人が「行方不明」になった。チベット亡命政府の発表では全て支那共産党軍の手によって虐殺されているという。さらに、100万人近い人々が、命がけでヒマラヤを越えインドやネパールに亡命している。また、性病予防の名目で、数万人の若いチベット人女性に対し、強制的に子宮を取り出す手術が行われた。現在でも、チベット人女性は漢民族の男と強制的に結婚させられるケースが多い。チベットで行われていることは、まさに「民族浄化」なのである。

対立集団の兵士を武装解除し、総選挙を実施する。憲法や刑法などをつくり、裁判所や警察を再建する。虐殺や拷問の真相を解明し、責任者を処罰する。こんなところが一般的な処方せんである。」と、朝日新聞は言う。全くの正論である。しかし、この言葉は永遠に支那に向けられることはない。

 チベットにおいて120万人もの大虐殺が行われ、現在も、抵抗運動も出来ないほど抑圧された人々がいる。しかし、その事実を朝日新聞は報道しない。その他の地域の紛争をクローズアップし、人々の目をチベットからそらし支那政府を助ける。試しに、朝日新聞しか読んでいない人にチベット問題について聞いてみると良い。まず間違いなく何も知らないはずだ。

 世界から紛争や貧困や差別をなくすために、まず朝日新聞のような連中を排除することからはじめよう。


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■天猜人誤(平成十二年五月二十九日)

<<昭和の日法案−重ねて成立を求める>>

5月26日の朝日新聞社説の見出し
■昭和の日法案――重ねて廃案を求める
いったい何が気に入らないんだろうね。ちょっと分析してみよう。

 「人それぞれの歴史観や価値観と密接にかかわる法案が、かくも乱暴に取り扱われることに、深い懸念を抱かざるをえない。  そのように制定した「昭和の日」が、「国民こぞって祝い、感謝し、記念する日」になるかどうか、よく考えるべきである。 」  26日朝日新聞社説より

 なるほど、このように「歴史観や価値観と密接に関わる法案」を国民のコンセンサスなしに決定するのは反対だというわけだ。では、朝日新聞お得意の「世論調査」を行ってみればいいのではないか。

 いつもなら、この手の問題が発生するとすぐに世論調査を行い、その結果を発表し「市民はこんなに反対してますよ〜〜〜」と声高に叫ぶ朝日新聞だが、今回はなぜかまったく調査やアンケートを行わない。いや、もしかしたらもう行っているんじゃないかな。そして、朝日新聞にとって思わしくない結果が出ているんじゃないだろうか。

 国旗国歌法や石原都知事の三国人発言の時にもアンケートを採ったが、そのときも国旗国歌法に賛成する人がおおむね70%以上、三国人発言をよしとする人もおおむね60%以上であった。朝日新聞にとっては歯がゆい限りだったのだろうが、これが普通の感覚というものだろう。確実に世の中は動いている。おそらく、今回もアンケートを採れば圧倒的多数が「昭和の日」に賛成することだろう。だからこそ、朝日新聞はアンケートを発表しないのだ。

 また、「歴史観や価値観と密接に関わる法案」ということであれば、「昭和の日」法案などよりも「日本国憲法(占領憲法)」の方が、よほど「歴史観や価値観と密接に関わる法案」なのではないだろうか。そして、この憲法は十分に国会で審議され、国民のコンセンサスを得て成立したものだっただろうか。どんなにおバカな朝日新聞やアカ教師でも、このことに「YES」と言う人間はいないんじゃないだろうか。

 みなさんご存じのように、「日本国憲法」は十分な国会の審議も経てはいないし、国民のコンセンサスも得ていない。アカい連中は、当時国民はみなあの憲法を歓迎したのだから国民的コンセンサスはできていたという。確かにそうなのだろう。どんな憲法なのか内容を見ることなく歓迎していた。報道言論が規制されている中での憲法成立だ。こんなものが国民のコンセンサスだというのなら、それはアカい連中の大好きな「民主主義」というものに死刑宣告をしているようなものである。

 いや、もしかすると、そういうものを正しい民主主義だとアカい連中は考えているのではないだろうか。報道も言論も統制し、国民には偏った情報しか与えず、政府や与党に異を唱えるものたちは全て消される。そういった中で国民大合唱の元、神格化された建国の父や首領様を崇め奉る。彼らの好きな支那や北朝鮮がそうであるように。

 また、朝日新聞は以下のようにも言う。

昭和という時代は、アジアだけでなく欧州などにも負の遺産を残した。それを克服し、未来への展望を切り開いていくことが、いかに微妙で難しい課題か。

 「欧州にも負の遺産を残した」とはどういうことだろう。日本軍はヨーロッパに攻め込んだのか?そんな話は聞いたことがない。ヨーロッパがアジアから奴隷や植民地を失ったことを「負の遺産」と言っているのだろうか。だとすれば朝日新聞はとんでもない帝国主義の擁護者だ。もしかして、オランダ人やイギリス人の捕虜の事か?しかし、捕虜の虐待等の戦争犯罪に関しては、一方的な軍事裁判で決着が付いているし、国家間の問題もサンフランシスコ和平条約で決着が付いている。もし負の遺産などというのであれば、帝国の民間人に対して無差別爆撃を行ったアメリカ軍の戦争犯罪は、一切裁かれていない。こちらの方がよっぽど「負の遺産」ではないか。

 重ねてASSAHI新聞は「昭和の日」の成立を強く求める。4月29日を「昭和の日」とし、国難に立ち向かわれた先人たちの活躍をかみしめ、そしてなにより、苦難に立ち向かわれ、常に我々臣民を愛し、護ってくださった先帝陛下の御慈愛と御厚恩に感謝し、その記憶を永遠のものとする日にしようではないか。


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■天猜人誤(平成十二年五月二十五日)

<<活動家に支配される自称市民団体>>

「逮捕歴のある人間とは会わない」中山建設大臣が言及

 中山建設大臣は、徳島県の吉野川第十河口堰改修問題で、住民側と約束していた「話し合い」を履行しない理由として「メンバーの中に逮捕歴のある人がいる」為だと述べた。この「逮捕歴」に関しては、「自称市民団体」の件のメンバーも認めている。

 その逮捕歴というのが、学生運動で暴動を起こした時のものだそうだ。

 何のことはない。やはり吉野川第十河口堰改修に反対する「自称市民団体」はその筋の「活動家」に仕切られていたんじゃないか。ばかばかしいったりゃありゃしない。その筋の「活動家」は、にこやかな笑顔と共に近づいてきて、周りの人間を集めて「市民団体」を結成する。そして共産党の支部と変えていくのだ。

 だいたい徳島市で開かれた住民投票で、90%の人間が改修に反対したとマスコミは報じるが、その投票率はたったの55%だった。投票率が50%を切った場合は無効となるので、改修に反対する勢力は投票自体をボイコットするように呼びかけたのだ。つまり、徳島市全住民の50%しか、第十河口堰改修に反対していないことになる。

 しかも、徳島市で住民投票が開かれ、徳島市の市民団体が第十河口堰改修に反対しているとマスコミが報じるので、殆どの人が吉野川第十河口堰は徳島市にあると思っていることだろう。しかし、実際には第十河口堰は徳島市にはなく、徳島市には第十河口堰改修に関して、殆ど利害関係にないのである。

 吉野川第十河口堰があるのは、徳島市の西側に隣接する石井町だ。しかも、もし第十河口堰が原因で洪水が発生したとしても徳島市には殆ど影響がない。洪水の被害を受けるのは石井町、板野町、藍住町、上板町と、徳島市ではない地域なのである。

 中山建設大臣の言葉を借りるまでもなく「民主主義の誤作動」である。その利害関係にない連中が、あたかも自らのことであるかのようにふるまい、勝手に住民投票条例を制定して、他人様の生命財産に関わる重大な運命を決めてしまう。この住民投票が石井町、板野町、藍住町、上板町で行われたのであれば百歩譲って納得しよう。しかし、利害関係にない徳島市で住民投票を行い、あたかもそれが「住民」の意志であるかのように報道するに至っては、まさに「民主主義の誤作動」以外の何者でもない。

 いや、もしかしたら「民主主義」とはこのようなものなのかもしれない。与えられた情報だけが真実であると信じ込み、その真偽について検証しない愚民たち。そして、それをよく知り、その愚民たちを自分たちの主義実現のための道具として洗脳し利用する朝日新聞。そういった連中によって運営される民主主義。まさにそれが「民主主義」の正体なのではないか。

 いずれにしても、この徳島での住民投票は茶番である。中山建設大臣もこんな茶番にいつまでもつきあう必要はない。

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■天猜人誤(平成十二年五月二十日)

<<30人学級見送りに納得のできない朝日新聞>>

 「公立小中学校の1学級の児童、生徒数は上限40人のまま維持するのが妥当」と、学級規模や教職員の配置を検討してきた文部省の協力者会議が、中曽根弘文文相に報告を行った。

 これについて、朝日新聞は20日の社説で「30人学級――見送りは納得できない」と見出しを打って反対した。もし30人学級を実施すれば、新たに12万人の教師と一兆円もの予算が必要になるために実施しないのだと朝日新聞は断じる。

 確かに、一兆円の予算を捻出するのは厳しいだろう。しかし、では一兆円もかけて12万人もの低質な教師を増やすことにいったいどれほどの効果があるというのか。そのあたりの検証を朝日新聞は全く行わない。まあ、朝日新聞にとっては、30人学級が実現すると、政府が一兆円も拠出してアカい教師を12万人増やしてくれるようなものだから、それを望んでやまないのだろう。最初、ノンポリで教師になっても、アカい先輩教師からの洗脳によって判断力を失い、獣の姿に成り下がってしまう多くの教師がいる。朝日新聞はそれをねらっている。

 私が小学生の頃は、45人学級が当たり前だった。それでも特に問題なく、学級崩壊などという言葉も存在しなかった 。もっとも、そのころはまだ家庭での躾がかろうじて行われていたころだったが。

 昨今の学級崩壊に関して、ある興味深い発言を聞いたことがある。保育園の保母と園長を、合計40年間勤めてきた60歳代の女性の発言だ。「個性教育、ゆとり教育という言葉が叫ばれて10年になります。この保育園でもその方針に則り個性とゆとりを重視する教育を行ってきましたが、それが間違いであったことを認めざるを得ません。個性とゆとりを重視する誤った教育が、今の学級崩壊を始めとする種々の問題を引き起こしています。我々はこの10年間、取り返しのつかないことをしてしまいました。」というものだった。

 私はこれを聞いたときに、保育教育関係者も捨てたものではないなと思った。この十年間、朝日新聞を始めとするマスコミと進歩的文化人は念仏を唱えるように「個性」「ゆとり」を叫んできた。その結果が先の発言に表されるような、悲惨な結果を招いてしまったのである。

 にもかかわらず、さらにアカい教師の数を増やし、個性とゆとりを重視する教育を行えと朝日新聞は主張する。奴らは本気でこの日本を崩壊させるつもりだ。

 いま、教育に必要なのは、厳しくしつけのできる「父親」の存在と、それをバックアップする「母親」、そして、学校という「社会」で、社会性や規範といったことを教える「立派な教師」である。それは決して教師の数を増やせばいいと言うものではない。教育というものは、崩壊させるのはたやすいが、確立させるのは一朝一夕にはいかないものである。教師の数を増やすと言った場当たり的な対処ではなく、礼節と道徳をこの社会の隅々まで普及させ、「恥ずべき行動をしない」ということを重点的に認識させる必要がある。政府はそのための施策を採らなければならない。(子供に教育勅語を暗唱させるとか・・・)



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