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朝、配達されてきた朝刊に「日本軍、南京市民30万人虐殺」とあった。昭和12年に、中国大陸で行った行為と印刷されている。国民党軍が敗走した後の南京の人口は30万人程度だったので、すぐおかしいと分かった。
新聞を発行した会社に連絡した。間もなく「中国共産党様がおっしゃっているのだから間違いない。」という返答があった。当然ながら、この虚報に対して訂正記事などはなかった。中国共産党の「プロパガンダ」なのか、新聞社の「ねつ造」なのかはわからなかった。
新聞は便利だが、誰かがねつ造した記事を載せることもできる。取材やインタビューや資料の検証も無しに記事にすることができる。記事は、うわさ話のやりとりでも成りたつ。
記事のねつ造による、大規模な情報操作が頻繁に発生している。情報社会のもろさを象徴するような出来事で、被害は心ある日本人の全てに及んでいる。日本のある新聞社が、有りもしなかった出来事を「中共のため」と書き立てたのだという。その新聞社は、戦争前は軍部のために太鼓持ち記事を書いていたので、記事のねつ造の歴史は古く、進歩的文化人を自称している割にはなんとも進歩がない。
芥川龍之介が「河童」に書いている。「最も賢い生活は一時代の習慣を軽蔑(けいべつ)しながら、しかもそのまた習慣を少しも破らないように暮らすことである」
人間の社会の方では、新聞の利用という一時代の習慣を、軽蔑しきるのも、抜け出すのも難しい。記事の内容を点検したり、不正な新聞社を減らしたりするのが、そこそこに賢い生活のようだ。
| ■《天声人語》 06月22日(assahi.comより) 郵送されてきた利用明細書に「100万リラ」とあった。前の月に、ローマのホテルで1泊した分として印字されている。通貨がユーロになるかなり前で、リラは円の1割弱だったが、それでも8〜9万円にはなる。そんなホテルには泊まっていないから、すぐおかしいと分かった。 クレジットカードの会社に連絡した。間もなく「間違いでした」という電話があり、当然ながら銀行口座からの引き落としはなかった。カードのデータ処理の「誤り」なのか、ホテルかどこかの「過ち」なのかは分からなかった。 カードは便利だが、誰かがなりすまして使うこともできる。対面しないインターネット上の売買は、カードそのものではなく、会員番号や有効期限のやりとりでも成りたつ。 不正アクセスによるカード情報の大規模な流出がアメリカで起きた。ネット社会のもろさを象徴するようなできごとで、被害は国境を超えて日本にも及んでいる。米の情報処理会社が、社内に蓄積すべきでなかったカード情報を「調査目的」で記録に残したという。不正アクセスは、昨年だったとの報もある。流出から発覚するまでが、なんともまだるっこしい。 芥川龍之介が「河童」に書いている。「最も賢い生活は一時代の習慣を軽蔑(けいべつ)しながら、しかもそのまた習慣を少しも破らないように暮らすことである」 人間の社会の方では、カードの利用という一時代の習慣を、軽蔑しきるのも、抜け出すのも難しい。明細書を点検したり、不用なカードを減らしたりするのが、そこそこに賢い生活のようだ。 |
| ■《天声人語》 09月12日(assahi.comより) 先日、横浜港に近い通りの歩道に、黄色い銀杏(ぎんなん)が幾つも転がっているのを見た。昨日通り掛かった東京都心の公園にも、銀杏が落ちていた。見上げると、枝葉の間に黄色い粒々がびっしりと付いている。隣り合う桜の木の根もとには、薄く黄色に染まった葉が数枚、散り敷いていた。 多くの木々が色づくのは先のことだが、いわば走りの黄色を見て、目黒区美術館で先日まで開かれていた「色の博物誌」展を思い返した。「黄−地の力&空(くう)の光」と題し、黄色にまつわる多様な世界を描いていた。 一抱えもありそうな硫黄の塊や、中国で皇帝を表す色とされる黄色の衣装、沖縄の紅型(びんがた)、黄色を生みだす数々の顔料などが並ぶ。長く見入ったのは、日本各地の黄土千種類を並べたという作品だ。 各地の土を詰めた試験管のようなガラス管が千本並ぶ。東京の隣に北海道の土があり、福井、島根、山梨……。黄色だけでなく、黒や赤に近い土も隣り合い、日本の大地を織りあげた巻物のようだった。 「黄色は光に最も近い色彩だ」とゲーテの「色彩論」にあるそうだ。黄色が光れば金色になる。両者の光学的な特性はあまり変わらないともいうが、現世での扱いは相当違う。 黄色は工事現場や駅、サッカー場などで注意、警告を発する。金色は金貨や金塊のように財貨の象徴として奥深い所に居る。容易に姿を現さないが、はからずも表に出てしまうこともある。最近では、政権党の大派閥への1億円だ。渡った時の姿は小切手という紙切れだが、その中身は、あやしい山吹色の光を放っている。 |
今回の天声人語は、「黄色は多様な世界を醸しだし、光れば金色になる。そして、その金色に輝いたものには魔力があって、橋本元首相の懐に入っていった」と言いたいらしい。いや、ごもっとも。金欲に目が眩んでしまったものはみすぼらしいし、みっともないものである。有史以来、金欲に目が眩んで全てを失ってしまった権力者や実力者は数え切れない。しかし、である。今回の一億円はたったの一億円であり、しかもそのお金は平成研に入り平成研の通帳に記載されて管理されていた。問題は、経理担当者が政治資金として報告しなかった点にある。政治資金として計上せず、他の用途に使うつもりなら、ハナから平成研の通帳に記載しないだろう。
いずれにしてもたったの一億円だ。朝日新聞が深く関与する、ある業界団体の裏金に比べればゴミのようなものである。その業界団体とは、「パチンコ業界」である。
日本のパチンコ屋は全国に約17000店ある。売り上げは”申告されている”だけで年間約30兆円。売り上げの2割から3割程度が”隠され”ているので、6兆円から9兆円程度が”裏金”になっている。そして、パチンコ屋の約7割は在日朝鮮系。このことから導き出されることは、つまり、年間4兆2千億円から6兆3千億円の裏金が北朝鮮に渡っている可能性がある。少なくとも数兆円は渡っているだろう。
そして、我らが朝日新聞様はパチンコ業界を擁護して”裏金”の北朝鮮への送金を推し進めてきた。以前、パチンコ業界にプリペイドカード導入が検討されたときの朝日新聞の反対キャンペーンは常軌を逸していたことからも、そのことがよくわかる。
※プリペイドカードを導入してお金の流れを警察(公安)が把握し、北朝鮮への送金を難しくすることが目的。
朝日新聞は、金正日の”愛”という妖しい光に魅せられ、せっせと裏金を貢いでいるのである。
| ■《天声人語》 08月21日(assahi.comより) きのう思いつくままアランの『幸福論』を引用したが、ついでにざっと目を通して「再読」の楽しさというのを味わった。 若いころ読んだときには、処世訓ふうのところが気になってあまり好きになれなかった。平明さのなかにひそむ機知には感心したけれど。それがいま読むと、なるほどと思うことが多い。アランに限らない。よくある経験だ。 日本人では、たとえば夏目漱石だ。子どものころからいまに至るまで繰り返し読む。あるいは読まされる。いつも何か発見がある。逆に言えば、子どもに漱石を読ませるなんて何と大胆なことをするものだと思うこともしばしばだ。「草枕」の世界などには、いまだ到達しそうにない。 アランに話を戻せば、彼は子どものことをよく書いている。「私はこういう少年が好きだ。つまり、困難にうちかちながら反省し、曲がり角をまちがったときにはまず『ぼくのまちがいだった』と言い、自分の過失をさがし、心から苦しむような少年だ」。言い訳ばかりをさがすような人間を彼は好まない。 そう言いながらこんな例を出すところがいい。陰気な猟師と陽気な猟師がいる。ウサギをとらえそこねて、陰気な猟師は「こんなざまはおればかりだ」と不運を嘆くのに、陽気な猟師はウサギの計略に感心する。もちろんアランは陽気な猟師を好む。 第一次世界大戦を挟んで書き継がれたことを思い、ヨーロッパ全体が打ちひしがれた時代であったことを思うと、彼の平衡感覚は貴重だったろう。極端な考え方を嫌い、穏やかに物事を考える人だった。 |
アランが平衡感覚を持っていたかどうかは別として、「極端な考え方を嫌い、穏やかに物事を考える人だった。」と書いてある所から、朝日新聞はそのような人を好むらしい。
では、「極端な考え方を嫌う」「穏やかに物事を考える」人とはどんな人だろう。朝日新聞が支持する人や団体がそうであるに違いないから、そのあたりから見ていこう。
ふう・・ろくでもない・・・。
| ■《朝日新聞社 asahi.com 天声人語:13/08/14:より》
参拝するか、しないか、それが問題だった小泉ハムレットは「熟慮」の末、参拝を選んだ。 参拝を終えた首相が、靖国参拝は「平和の礎になった戦没者に敬意と感謝の念をささげることだ」と言い、A級戦犯について聞かれると「特定の個人にお参りしたのではない」とかわした。 この間ずっと気になっていることがある。戦没者が「平和の礎」になったとしても、あまりに犠牲が大きすぎたのではないか。少なくともその犠牲者を大幅に減らすことができたのではないか。そのことへの痛恨の思いはないのか、である。 日米開戦を避けようという動きがぎりぎりまであったのは、周知の通りだ。終戦工作もいろいろ考えられた。いずれにしても、犠牲者を増やさないための機会はたびたびあった。「心ならずも逝った人々」のことを語るとしたら、それをしなかった指導者の責任をどう考えるのか。指導者としての小泉首相に尋ねたいところだ。 古い「天声人語」(56年4月23日)を読んでいたら、軍首脳だったA級戦犯のこんな言葉に遭遇した。「敵軍が本土に上陸したら、互いに血は流したろうが、敵軍は惨憺(さんたん)たる光景になったろう。敗(ま)けたと思う時初めて敗ける。敗けたと思わなければ敗けない」。戦後になってもこんなことを言う人がいたのに驚かされる。 小泉首相は、これとは違う。「二度と戦争の道を歩むことがあってはならない」と繰り返している。そのためには追悼とともに、あの大戦の指導者たちについて、その責任の重さについて、学ぶべきことが多いと思う。 |
ステキだ。あまりにもステキな天声人語なので、一瞬気を失いそうになった。
| 参拝を終えた首相が、靖国参拝は「平和の礎になった戦没者に敬意と感謝の念をささげることだ」と言い、A級戦犯について聞かれると「特定の個人にお参りしたのではない」とかわした。
|
当然だろう。靖国神社には200万柱以上の方々が祀られている。そのすべての英霊の方々に帝国の意志を代表して参拝したのであって、決して特定の個人に対して参拝したのではない。子供でもわかりそうなことだが、朝日の記者にはわからないのだろう。
戦死者の多くは、靖国神社を心のよりどころにして戦地に赴いた。もちろん、ニュース23やニュースステーションに出てくるような「一部特定の」退役軍人のように、戦地に赴くのは本意ではなかったという人もいるだろう。しかし、靖国神社に奉納されている遺書や、靖国神社発行の「ことのは」にあるように、その多くの方々は「次は靖国で会おう」「父に会いたければ靖国においで。その梢の一つが父だ。」そういった遺書を残して御国の為に散って逝かれたのだ。
現在残っている遺書の多くは特攻兵のものだ。特攻隊に志願すれば間違いなく死が訪れる。そのような、目前に迫り決して避けることのできない「死」と直面してるときに記した遺書。この遺書に対しても「あれは強制されて書いたのもだ」「本意ではない」と冒涜する輩がいる。果たしてそうなのか?冒涜する輩は、先入観のない素直な心でその遺書を読んだことがないのだろう。江戸時代には、孔明が記した「出師の表」を読んで涙を流さないものは武士にあらずと言われたものだが、同じように、その多くの遺書を読んでもなお、それが本意ではなかったといえる人間は、人の心を持った日本人ではない。
初めて特別攻撃が実施されたのは昭和十九年十月二十五日。特別攻撃が本格的になったのは、昭和二十年に入ってからだ。このころになるとフィリピンも奪回され、硫黄島守備隊も玉砕と、内地でも敗戦の危機が感じられるようになっていた。さらに昭和二十年三月の東京大空襲を皮切りに、全国の都市が次々と空襲で焼き尽くされていた。東京大空襲直後の写真を見たことがあるだろうか?広場にうずたかく積まれた人の形をした炭素の固まり。その半分以上は女と子供だ(だった)。このような写真は当時は発表されなかったが、東京を始め各地の都市が空襲にあい、多くの一般市民が虐殺されていることは報道されていた。
無抵抗の女子供が無惨に虐殺されつつある中、何もしないでじっとしていることができるだろうか?自分の力だけではどうすることもできない。國を動かすことも、戦争を終結に向かわせることもできない。しかし、目の前で殺されつつある多くの人々を、自分の肉体と精神を育んでくれた、愛すべき國と人々を少しでも救いたい。そう思い、多くの若者が自らの命を武器に変え、南の海に散ったのだ。
そういった人々の魂が、まさに靖国神社に「在る」のだ。我々、今生きている者たちのために死んでいった方々。その英霊の魂に対して、国家の意志を代表して総理大臣が参拝するのに何の後ろめたさがあるだろうか。
| この間ずっと気になっていることがある。戦没者が「平和の礎」になったとしても、あまりに犠牲が大きすぎたのではないか。少なくともその犠牲者を大幅に減らすことができたのではないか。そのことへの痛恨の思いはないのか、である。
日米開戦を避けようという動きがぎりぎりまであったのは、周知の通りだ。終戦工作もいろいろ考えられた。いずれにしても、犠牲者を増やさないための機会はたびたびあった。「心ならずも逝った人々」のことを語るとしたら、それをしなかった指導者の責任をどう考えるのか。指導者としての小泉首相に尋ねたいところだ。 |
この下りにはあきれてものがいえない。「日米開戦を避けようという動きがぎりぎりまであったのは、周知の通りだ。」ということだが、まさにその通りだろう。最もそう願っておられたのが他でもない、先帝陛下であることは周知の通りだ。では、日米開戦を避けようとした動きに真っ向から反対し、政府の対中対米政策を弱腰と批判し、真珠湾攻撃の際には皇国の歴史開闢以来の偉業と讃えたのはどこの誰だったのか?昭和五十六年の天声人語を読み返す前に、戦前戦中の朝日新聞の記事をまず読み返してみるといい。お前たち朝日新聞がいかに好戦的で卑怯な集団であるかがよくわかるだろう。
| 「二度と戦争の道を歩むことがあってはならない」と繰り返している。そのためには追悼とともに、あの大戦の指導者たちについて、その責任の重さについて、学ぶべきことが多いと思う。
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「二度と戦争の道を歩むことがあってはならない」と繰り返している。そのためには追悼とともに、あの大戦をあおった朝日新聞を代表とするマスコミたちについて、その責任の重さについて、学ぶべきことが多い。朝日新聞は、日本人200万人の血を吸っただけではまだまだ足りないのである。
| ■《朝日新聞社 asahi.com 天声人語:12/11/25:より引用》
森喜朗首相はいま、旅の空。東南アジア諸国連合(ASEAN)の会議出席のため、シンガポールに滞在中だ。しかし、どこか、うわの空かもしれない。不信任案が否決されたというのに、永田町の不穏な空気は消えないのである。 |
朝日は「うわの空」と言う言葉がお好きらしい。先日も天声人語で森総理をうわの空と表していた。他に表する言葉はないのか?ボキャ貧とはまさにこのことだ。だいたい「かもしれない」とはどういうことだ。朝日新聞の憶測だけで世論を誘導するんじゃないよ。
| 「不信任案否決は、森首相の信任を決定したものではないと思っている」。野中広務・自民党幹事長は、橋本派の総会や岐阜市での講演で、そう言い切った。つい先日、なりふり構わず否決のために動いた野中氏のことばとも思えない。いったい自分をどう思っているのか、と首相は不安を募らせているだろう。 |
あらあら、朝日新聞様ともあろうお方がこの言葉の真意がわからない?わからない振りをしているだけ?
| 野中氏は「緊張感をもち、謙虚さをもって、政局安定のために毎日毎日を刻んでほしい」と首相に注文も付けた。首相の側に立てば、これほど失礼千万な言い方はない。けれども首相は腹など立てず、殊勝にこう語るのだ。
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腹を立てないのは森総理が朝日新聞なんかよりよっぽど大人だって事なんだよ。部下からの諫言を相手にせず、いちいち腹を立てるのは人間性が低い証拠。朝日新聞と共産主義者の特徴だ。諫言を呈した部下を次々と殺した毛沢東のことはもうお忘れか?
| 「大いに叱咤(しった)激励をして、緊張感をもってしっかり当たってくれ、というつもりであったというふうに、周囲から聞いている」と。もともと「森の中(森野中)政権」と呼ばれた、いびつな内閣なのだ。首相の生殺与奪の権は、実力者・野中氏の手中にある、といってもいい。ゆさぶりで首相を操る。そんな政治状況のもとに、国民は置かれている。 |
たとえそうだとしても、それを選択したのは朝日新聞の大好きな国民や市民だ。民主主義を標榜するんだったら選挙結果を否定するようなことはするなよ。みっともない。選挙結果が気に入らないんだったら、民主主義を擁護するような紙面は作るな。
| 中国古代に、太公望呂尚(りょしょう)という人がいた。魚釣りをしていたところを王に見いだされた、との伝説に登場する逸材だ。あるとき王が「どのようにすれば、天下の人びとが従ってくれるだろう」と聞いた。
呂尚は答えた。「この天下は、王の天下ではなく、国民全体のもの。その人びとと利害を同じくする者は天下の主となり、天下の利益を勝手気ままにする者は天下を失います」 不信任案否決の道筋で明らかになったように、野中氏に象徴される自民党は、もっぱら派閥の論理でしか動かない。「天下の利益」を勝手気ままにしている。 |
それでも自民党が天下を失わないのは何でだろうね?だいたい、もっとも「天下の利益」を勝手気ままにしているのはどこの誰だっけ?支那/北鮮と朝日新聞に都合の悪いことは報道せず、報道しても真意をねじ曲げて報道する。事実にないことでも平気で捏造し記事にする。こんな勝手気ままな事をしている連中というのは朝日新聞の事じゃないのか?つい先日も、熊谷組が赤字経営にも関わらず政治献金していた件で株主が損害賠償を求める訴えを起こした記事があったが、朝日新聞は熊谷組が「自民党などに」多額の政治献金をしていたと報じていた。しかし、記事を良く読んでみると政治献金をしていたのは自民党にだけではなく、民主党にも多額の献金をしていたとある。しかし、記事の見出しには自民党の名前しか出てこず、記事の前半にも自民党の名前しか出ていない。民主党の名前が出てくるのは記事が終わりかけた頃だった。見だししか読まず、日本語の読解力のない朝日新聞の読者には、まさに自民党だけ政治献金を受けていたと映ったに違いない。「天下の利益」を勝手気ままにしているとはまさにこのことだ。
■《天声人語批評》(12/08/18)
| ■《朝日新聞社 asahi.com 天声人語:12/08/18:より引用》
沈没したロシア原潜の内部は、いま、どんな様子だろうか。想像しただけで、息が苦しくなってくる。助かってほしいと心から願う。 夏目漱石が「名文」と絶賛した文章がある。佐久間勉が書いた。彼は1910年(明治43年)4月15日に亡くなった。当時、海軍大尉、30歳。沈没した潜水艇に閉じこめられ、13人の部下とともに殉職したのだった。名文とは、その遺書である。 佐久間は、それより4年前に完成した6号潜水艇の艇長だった。国産初の潜水艇で、排水量57トン、長さ23メートル、幅2メートル。製造技術も性能も貧しく、大きさもロシア原潜にくらべれば豆粒みたいなものだ。動力はガソリン機関と2次電池。事故は訓練潜航中に起こった。 山口県岩国沖で消息を絶ったため、徹夜で捜索が進められたが、翌日、水深16メートルの海底で沈没しているのが確認された。全員が部署についたままの姿で死亡しており、佐久間艇長の軍服のポケットから、手帳に鉛筆で途切れ途切れに書かれた遺書が見つかった。 沈没の原因、その後の経過、艇内の状況が冷静に報告され、〈サレド艇員一同死ニ至ルマデ皆ヨクソノ職ヲ守リ沈着ニ事ヲ処セリ〉と記す。電灯が消え、ガスが充満する。遺書は〈12時30分呼吸非常ニ苦シイ……12時40分ナリ〉で終わる。――うまい文章というのではない、人間としての誠実の極致というべき文章なのだ。漱石は、そんな意味のことを書いている(『艇長の遺書と中佐の詩』)。 90年も前のできごとだ。しかし、潜水艦の沈没という特殊な事故の厳しさは、昔もいまもそう大きくは違わないのではあるまいか。全員の救助を期待しつつ、しかし、この段階に至っては、頼むのは奇跡だけ、との思いが深まる。原潜クルスクの乗組員は118人。選び抜かれた、冷静沈着な若者たちが中心だそうだ。 |
今までの天声人語の中で一番いい文章じゃないかな。朝日新聞だって多少はまともな文章が書けるんじゃないか。
しかし、この天声人語も朝日流の嫌らしい言い回しがある。佐久間大尉が書いた「遺書」を「人間としての誠実の極致と言うべき文章」と賞賛しているのは朝日新聞ではなく、夏目漱石である点だ。軍人が書いた文章を、朝日新聞の言葉で賞賛したくないばかりに夏目漱石の言葉を引用している。ひねくれ者の特徴だ。
ところで、先述の佐久間大尉の「遺書」だが、これは「遺書」というより「報告書」と言うべき文章である。事故に至った経緯、考えられる原因、そして、時間がたち塩素ガスと酸欠の中での身体的変化、乗組員の様子を詳細に報告している。そして最後に、自分の責任において13人の優秀な若者と、天皇陛下からお預かりした潜水艇を失ってしまうことへの謝罪を記しているのだ。決して個人的な遺書ではない。その死の瞬間まで職務を全うし続けた。まさに軍人の鏡、いや、職務を行うものの鏡というべき人物である。明治期に生きた人の気概を強く感じる。
狭く明かりのない廷内において、数時間後には確実に訪れるであろう「死」を、ただ座して待たなければならない時の心中はいかばかりのものであろう。大東亜戦争での特攻隊員も、翌日には確実に訪れる「死」を前に、多くの隊員が遺書を残している。しかし、それは決して己の境遇や死を悔やむものではなく、人間としてもっとも美しい生き方、死に方を与えてくれた両親や国家に対する感謝の念がつづられているものが多くあった。佐久間大尉はどうだったのであろう。事故によって失われてしまう隊員と潜水艇。本当ならもっともっと活躍できたであろう若い隊員を死に追いやってしまったその悔しさは計り知れないものがあったのではないか。佐久間大尉はこうも書いている。「この事故を教訓に、さらに信頼性の高い潜水艇を開発し、帝国の繁栄に役立ててほしい」と。佐久間大尉の報告書は多くの教訓を残し、後の潜水艦開発に活かされ、世界に誇る高性能潜水艦を多く開発することができた。佐久間大尉の死を決して無駄死ににしなかったことが、佐久間大尉への最大の弔いとなったはずである。
人間はいつ何時死に直面するかもしれない。その可能性は誰しも等しく持っているのだ。もし自分がそのような立場に立ったらどうだろうと考える。佐久間大尉や特攻隊員のように、その運命を潔く受け入れることができるのだろうか。いや、受け入れなければならないと強く思う。そのためにも、日頃からそのときのための覚悟をしておかなければならない。私を育んでくれ、美しく優しい妻と可愛い子供を与えてくれた国家のため、そしてなにより、私の愛する妻と子を護るために、潔く死を受け入れたいと強く願う。
■《天声人語批評》(12/08/15)
| ■《朝日新聞社 asahi.com 天声人語:12/08/15:より引用》
55年前のきょう、戦争が終わった。それから55年たって、同じ「8・15」のきょう、通信傍受法(いわゆる「盗聴法」)が施行される。 薬物、銃器、集団密航、組織的殺人。それらの犯罪を解明し、摘発するために、捜査機関が電話や電子メールなどを「傍受」するのを認めた法律だ。しかし一方で、人びとの自由、人権を侵しかねない、と懸念、危うさが指摘されている法律でもある。 <中略> 気がかりな法律をあえて用いるのなら、担当するのは市民の信頼厚い「彼ら」でなければならない。が、去年8月、国会で法案が通ったあと、神奈川県警を皮切りに警察の不祥事が洪水のようにあふれ出た。つぎからつぎへと、いまも続く。明るみに出るのがもう少し早かったなら、この法律の成立はきわめて難しかっただろう。 「8・15」という施行日は、法務省刑事法制課によれば「もちろん、たまたまにすぎない」そうだが。 |
なにが「いわゆる盗聴法」だ。「盗聴法」なんて使っているのは朝日新聞を代表とする偏狭なサヨクだけだよ。この法律では、通信の傍受ができる犯罪が限定されている。もし、これ以外の犯罪や、犯罪でもないことにまで適用されることがあれば、その時はキャンペーンを張って反対すればいい。
しかし、朝日新聞の通信傍受法への反対姿勢をみていると、ある種の精神病を連想させる。病名は忘れたが、常に自分が監視され、世間の注目を集めているのではないかと思いこみ、妄想、幻覚、訳の分からない言動をするという病気だ。すべて朝日新聞に当てはまるところを見ると、間違いなく朝日新聞の社員はほぼ全員頭を患っている。
「また、あえて運用するのなら、信頼あつい人間でなければならない」と述べ、警察の不祥事を非難している。であるならば、「新聞」という公器を運用する人間も当然信頼が厚くなければならないのではないだろうか。痴漢、強制わいせつ、のぞき、タクシー強盗、脅迫、暴行傷害、殺人未遂、これらはこの一年間に朝日新聞とその関係者が起こした事件である。これだけの犯罪者を社員や関係者に抱えている企業というのも他にはちょっと見あたらない。さすが朝日新聞様である。懐が深い。
自分自身を反省することなく、他人様に対してだけご立派なことを要求するのはサヨクの特徴だが、そろそろその愚かさに気づいてみてはどうだろう。といっても、それを朝日新聞に要求するのは無理というものか・・・・。
■《天声人語批評》(12/08/08)
| ■《朝日新聞社 asahi.com 天声人語:12/08/08:より引用》
きのうに続き、子どもたちが合宿して遊ぶ「子どもイタズラ村」の話。ことしの夏合宿は5泊6日だった。村を主宰する養護学校教諭、早川たかしさん(49)は初日、宿舎から歩いて5分ほどの川に、参加した親子を連れて行った。 上流にダムのない、幅約3メートルの渓流。その中や岸辺を1時間くらい歩き回った。渇水期の夏は水量も少なく、ひざ程度。しかし、飛び込める深さのところもある。幼稚園の年長組くらいだと、沢を歩いて渡るのを怖がり、母親にしがみついて泣く。 しかし300メートルも進むうちに、どのくらいの深さなら自分でも歩けるかがわかってきて、親から離れる。去年の合宿では飛び込めなかった子が、ことしは勢いよく水しぶきをあげた。川へは必ず親や、以前に合宿を経験した高校生、大学生が付き添う。深みでは、早川さんがまず飛び込んで、危険かどうか確かめるそうだ。 おとなが「危ないからやめなさい」と注意しなくても、子どもは自分で安全か危険かを判断できるようになる。雨が降った翌日や、水が濁っているときは、おとなが言う以前に、川には行こうとしない。「けがをすることもあるけれど、小さな危険体験を積み重ねるうちに、子どもたちは『自分の命は自分で守る』ことを学ぶんです」と早川さんは語る。 谷川岳のふもとにハイキングに来たサッカー少年団員たちが鉄砲水に襲われ、引率の男性が亡くなり、6人がけがをする事故があった。早川さんにとっても、ひとごととは思えない。「自然のなかで、人間はいつも危険にさらされているんですね」。が、懸念もある。 「『危険だからダメ』では、そういう場所へ行かなくなる。単に危険の芽をつむだけだと、遊ぶ心もなえさせてしまう。指導者を失った子どもたちはショックを受けているでしょう。でも、事故を通じ、大切な何かを学んでほしい」 |
「事故を通じ、大切な何かを学んでほしい」なるほど、全くその通りだろう。人間とは経験から学び成長するものである。それが人間の自然な成長であり進化であるが、それに真っ向から反対する集団がいる。我らが朝日新聞だ。
谷川岳の鉄砲水事件で朝日新聞は「自然はいつ牙をむくかもわからないから、それに対する備えは必要だ」と社説で打ち出しておきながら、その次の日の社説で「公共事業の見直し」で中海の干拓事業と吉野川可動堰の改修工事をやり玉にあげていた。
中海の干拓事業については防災という意味合いはなく、100%農地拡大という時代錯誤の事業内容であるため、早急な中止が求められて当然である。しかし、吉野川可動堰の改修工事は防災が目的であり、その工事の意義が失われてはいないのである。
朝日新聞の言を借りるまでもなく、自然とは突然牙をむくものである。しかも、ひとたび牙をむけば、その災害が甚大なものになる場合が往々にしてある。今世紀になってからだけでも、台風による災害で死亡した人は一万人を下らない。
地図で吉野川を見ればよくわかるのだが、吉野川は河口から100キロ程度ほとんど直線に流れている。また、両側は急峻な山脈に囲まれており、ひとたび降った大雨は短時間のうちに吉野川に流れ込み、その水流を増すのだ。地元では「四国三郎」と呼ばれるこの吉野川に、古来徳島の人々は苦しめられてきた。ちなみに「四国三郎」の三郎とは「暴れん坊」の意味だ。
そして今から150年前、現在の吉野川第十河口堰が作られた。この第十河口堰によって低地に流れ込んでいた吉野川の流れを変え、現在の流れに一本化されたのである。そして元々流れ込んでいた地域は「旧吉野川」と呼ばれ、今でも低湿地帯で蓮根畑が広がっている。また、せき止められた旧吉野川地域に対し、適切に水を配分する役目も第十河口堰は負っている。
そしてこの第十河口堰は老朽化が目立ってきている。なんと言っても作られてから150年が経過しているのだ。もし、自然が牙をむくようなことがあれば、第十河口堰によってせき止められた水流はその流れ先を求めて堤防を破り旧吉野川地域に流れ込む可能性がある。また、老朽化した第十河口堰が決壊すれば、その水は鉄砲水となって下流にある橋を飲み込んでしまうだろう。このようなことになれば想像を絶する大惨事が予想される。
だからこそ、災害を防ぐために新しい可動堰が必要なのである。
可動堰は今の第十河口堰の役目をすべて含んでいる。まず、利水。現在でも第十河口堰によってせき止められた水は、旧吉野川地域を始め徳島市全域の農業生活用水に使われている。これについては新しい可動堰でも変わらない。次に防災。現在の第十河口堰も防災の意味はあるが、これは吉野川の流れをそこで少しペースダウンさせ、また、旧吉野川地域に大量の水が流れ込まないようにするだけである。水量の能動的な調整はできない。また、この第十河口堰は昭和40年代の中規模の台風によって一部破損するという状況も発生している。このような状況で未曾有の豪雨に襲われたら大変なことになるだろう。
しかし、この朝日新聞のダブルスタンダードにはあきれてものが言えない。災害に対してどのようなスタンスに立っているのかはっきりしてほしいものだが、それを望むのは無理な話なのだろう。朝日新聞にとって災害による被災者などどうでもいいのだ。いや、災害によって大量の被災者がでることを心待ちにしているのではないのだろうか。そうすれは政府の怠慢をやり玉に挙げることができるのだから。
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■《天声人語批評》(12/06/29)
| ■《朝日新聞社 asahi.com 天声人語:12/06/29:より引用》
最近のことばから。 韓国の選挙で落選運動を進めた1人、弁護士の朴元淳さん(44)。「世代交代は絶対に必要だ。現代は社会の動きがとても速い。素早い変化に対応でき、政策能力や知識をあわせもった世代がアジアでも政治エリートとして台頭してくると思う。そういう人でないと有権者にとっても魅力的に映らないのでないか」。 <中略> 劇団文化座の『春という黄昏(たそがれ)、秋というトスカ』で、鈴木光枝さん(81)が演じる78歳の「春」が、病気の娘をしかり「病なんてのは、ちょっとしたひとつの変化に過ぎないんだよ。変化を怖がっていたら、生きちゃいけないだろう。なんのためにここまで頑張ってきたんだね。自分を軽くみると、お天道様のバチが当るよ」。 |
今日の天声人語は「変化しなければならない」ということが言いたかったらしい。革新的な朝日新聞らしい主張だ。しかし、なぜ変わらなければならないのかの根拠が乏しいし、なにより、創刊以来、記事の捏造と大衆煽動と無責任さに於いて全く変化していないのは朝日新聞自身ではないか。
他人に対して変化を求めつつ、自らは未だに支那共産党を礼賛し、バカの一つ覚えのように反体制を主張する。やつらの主張は戦後55年間全く変化していない。
その体質に至っては朝日新聞の創刊以来全く変化していない。今から77年前の関東大震災の時など、朝日新聞は朝鮮人が暴動を起こしていると嘘の報道を垂れ流し、結果6千人もの朝鮮人を殺害するに至っている。しかし、このことに対してもちろん反省や謝罪などしていない。支那人を彷彿させるような新聞社だ。その体質が変わっていないのは、未だに記事の捏造や嘘の垂れ流しや世論操作を行っている事からもわかるだろう。
他人に変化を求める前に、まず、自分自身が責任ある報道機関に生まれ変わることを考えてはいかがだろうか。
■《天声人語批評》(12/06/09)
| ■《朝日新聞社 asahi.com 天声人語:12/06/09:より引用》
〈葬儀は簡素に、皆さんにご足労をかけないよう、1回行なうように〉。故小渕恵三前首相は、自宅書斎の机のなかに、そう指示した書き付けを残していた。 〈平成5年か6年に書いたものだったと思います。おそらくこれを書いたとき、総理になるとは思いもしなかったのでしょう〉。千鶴子夫人は、文芸春秋7月号で記している。きのうの葬儀には内外から約6000人が参列し、NHKテレビはその模様を2時間近くにわたって中継した。 <中略> 前首相の「内閣・自民党合同葬」にあたって青木幹雄官房長官は、全国の自治体や学校で「黙とうをするよう」に通知した。「残った者のためにおこなわれる」一例だろう。 |
小渕首相が「葬儀は簡素に」と残していたにもかかわらず、政府が全国の自治体や学校に黙祷とするように指示を出したことがよほど気に入らないのだろう。朝日新聞のこういう態度が、目上の人に対する尊敬の念を失わせ、礼節を疎んじ、安易に犯罪に走るような人間を大量生産してしまうのだ。
人間が人間として社会を形成して生きていく以上、その人物の能力や働きに応じて立場という物ができあがってくる。小渕氏は内閣総理大臣という立場にあった。その内閣総理大臣が任期半ばで逝去されたのだ。国民としては、その「死」に弔意を表すことが礼儀という物だろう。これは本人の意志がどうこうというレベルの問題ではない。朝日新聞の貧弱な思考力ではそこまで理解できない不幸な連中だ。
人の死に対して弔意を表す。人として当然の行為である。「死」という物への畏怖の念を自覚させることによって、「生」に対する認識も深まるのではないか。昨今の、安易に殺人を犯してしまうような犯罪者の思考には、「死」という物への畏怖の念が欠如している。このようなことも凶悪犯罪の原因の一つといえるだろう。さらに、小渕氏は国家の最高権力者であった。つまり、我々を生かすも殺すも彼次第だったのだ。そして、我々は彼の働きによって比較的安全に生活することが出来た。このこと一つ取ってみても、小渕元総理に対して弔意を示す義務があるのではないか。人としての当然の行為である。
目上の人に対すして敬意を示す。こんな当然のことでも朝日新聞にとっては差別を助長する一因になるらしい。こんな連中がこの美しい日本にのさばっている限り、真の秩序を平和はもたらされないだろう。
■《天声人語批評》(12/06/08)
| ■《朝日新聞社 asahi.com 天声人語:12/06/08:より引用》
「明日の記者会見についての私見」と題された、ワープロ打ちのメモのコピーを読んだ。全部で約1350字。森喜朗首相の「神の国」発言をめぐる釈明会見(先月26日)に先だって記されたらしい。 メモは、こんなふうに始まる。〈……今回の会見は大変、リスキーで、これまでと同じ説明に終始していると、結局、民放も含め各マスコミとも、「森首相“神の国発言”撤回せず 弁明に終始」といった見出しを付けられることは、間違いないと思ってください〉 首相の側近が書いた、と受け取るのがふつうだろう。しかしメモは、会見で質問する側の首相官邸記者クラブ(内閣記者会)の部屋に落ちていた。状況から、クラブの一員が筆者ではないか、とみられている。メモは、会見をひかえたクラブの雰囲気を報告したうえで、「発言の撤回はできない」との意見はよくわかる、と首相に理解を示す。 <中略> 残念なことだが、書いたのが本当に記者だったとする。むろん個々の記者がどんな意見を抱こうと自由。が、これは明らかに職業倫理に反した、国民に対する背信行為だ。人間として不誠実である。報道に携わる資格なし、とみる。 |
「あきれてものが言えない」と何度書いたことだろう。そろそろ他に良い言葉がないものかと考えてみるが、朝日新聞に対してはこの言葉がまず最初にきてしまう。
今日の天声人語にあった「指南書」が発見されたのは、首相官邸記者クラブのコピー機横にあるゴミ箱の中だ。くしゃくしゃに丸められて捨てられていたそうだが、たまたまゴミ箱あさりが趣味だった西日本新聞の記者がそのゴミ箱をあさっていたところ、これまたたまたま発見したというものだ。話ができすぎているようにも思えるが、まあいい。サヨク新聞記者はごみ箱をあさることが日常的なことになっているのだろう。サヨクは他人のプライバシーを覗いたり検閲したりするのが大好きなものだ。
その指南書には「私見」と題して、森総理大臣にどのように記者会見を切り抜けたらよいかのアドバイスを書いている。また、「朝日などが騒いだとしても・・」といった具合に、朝日新聞を名指しで非難している。誰が書いたかまだ不明だが、記者クラブのゴミ箱に捨ててあったと言うことから、新聞記者が書いた可能性が高い。朝日新聞は業界の嫌われ者なのだ。
ゴールデンウィークの佐賀バスジャック事件で、無事救出された女性宅で記者会見が開かれたときのことである。開催されたのは、バスジャック事件が解決した日の夜のことだった。記者会見に望む取材陣は、会見開始予定時間の30分前に女性宅前の空き地に集合し、本日の記者会見の打ち合わせをしていた。その打ち合わせでは、被害者の女性の精神や体をいたわって、あまり露骨でしつこい質問は行わないことが申し合わされた。しかし、そこに朝○新聞の記者はいなかった。
記者会見予定時刻になり、取材陣が女性宅を訪れた。丁度そのとき一台のタクシーが女性宅の玄関前に停車した。朝○新聞の記者だ。女性宅は閑静な住宅街にある。他の記者はそのことを考慮して、少し離れたところに車を止め、そこから歩いてきていたが、朝○新聞の記者はお構いなしだ。
記者の一人が女性宅のチャイムを鳴らす。すると女性の母親がでてきて「娘は今帰ってきたばかりなので、あと30分遅らせていただいてよろしいでしょうか」と申し出た。その日の朝までバスに監禁され、警察での事情聴取を終えて帰宅したばかりだ。一同母親の申し出を受け入れ、30分後に出直そうとしたそのときだった。
「こっちにも締め切りがあるんだから困るんですよ。すぐに始めていただけますか」という怒鳴り声に近い声があがった。先ほどの朝○新聞の記者だ。「なにを考えているんだ」と、一同この朝○の記者をにらみつける。しかし朝○の記者は動じない。「すぐに始めてください!!」
女性の母親はその恫喝に屈し「ではあと15分だけ待ってください」と妥協案を提示した。さすがに朝○の記者もこれに同意した。「じゃあ、15分だけですからね。」いったい何様のつもりだろう。
15分後、女性宅の座敷で記者会見が始まった。一番最後に来た朝○の記者は、何の臆面もなく最前列の真ん中に座る。そして矢継ぎ早に質問の嵐。会見の前に打ち合わせしていたことが、一匹のアカ猿のせいで台無しになっている。ほかの記者が質問をしようとするとそれを遮ってまで自分の質問をする。そしてこの朝○の記者が一番しつこく聞いていたのが、「殺された女性の最後の様子」である。犯人がどのように女性を斬りつけたのか。何度斬りつけたのか。そのとき女性はなんと叫んだのか。血はどの程度流れ出したのか・・・。これらの事項は、女性の体と精神をいたわって、できるだけ露骨に質問しないでおこうと申し合わせた事項だった。もっとも、その打ち合わせに参加していない朝○の記者は、その申し合わせを知らない。しかし、これが「記者」としての「職業倫理」であり、「記者」たるもの当然守ってしかるべきことのはずだったのだが、朝○の記者には通用しなかったようである。こんな状態では、同業者から鼻つまみものにされるのはよく理解できる。理解できていないのは、当の朝日新聞だけだろう。
これが、朝日新聞の言うところの「職業倫理」と言うものなのだ。他人のプライベートにづかづかと土足で踏み込み、どうでもいいゴシップを記事にし、言葉尻を捕まえて鬼の首を取ったかのように振る舞う。そんな朝日新聞からすれば、総理大臣の言動に理解を示し、ギャーギャー騒ぐだけの朝日新聞を非難するような「メモ」を書く記者は「職業倫理」に反し「人間として不誠実」なのだろう。
では、どのような人間が「人間として誠実」であり、「職業倫理」に反していないのだろうか。これは朝日新聞社員の行動をみるとよくわかる。
<人間としての誠実>
・酔っぱらったら、女性のお尻に抱きつき頬ずりする。捕まったら、酔っていて覚えていないとしらを切る。
・自分の一物をさらけ出し、「舐めてみるか〜〜」と言いながら女性を追い回す。
・朝日新聞を購読させるためには、胸ぐらをつかんで脅したり、「事務所に来てみるか」と恫喝することも辞さない。また、クーリングオフの申し出があった場合には暴力を使ってでも引き下がらせる。
<職業倫理>
・被害者の人権など一顧だにせず、根ほり葉ほり聞きだし、写真週刊誌さながらのゴシップ記事を書き、それを「国民の知る権利」であると主張する。
・政治家や官僚と個人的な信頼関係を構築し、その信頼を信じてしゃべった「オフレコ発言」を、何の躊躇もなく記事にする。
・支那、北朝鮮、朝日新聞に都合の悪い事実はひた隠しにするか、主要な論点をずらして報道する。
・日本を貶めるためには嘘を平気で垂れ流す。
・自ら貴重な珊瑚を傷つけ、それを一般のダイバーのせいにし環境保護キャンペーンを張る。
などなど・・・
これ位しないと「人間として誠実」であり、「職業倫理」を遵守しているとは言えないのだろう。しかし、普通の神経の持ち主だったら、これだけのことはちょっとできそうにない。さすが朝日新聞様である。奥が深い。
しかし、この連中はなにを勘違いしているんだろうね。あれだけ偏った報道を嘘をまじえて垂れ流しているくせに、記者の誰かが総理大臣に「理解を示し」、朝日新聞を非難しただけで「人間として不誠実」で「職業倫理」に反し「国民に対する背信行為」なのだそうだ。もし新聞記者で自民党に投票などしようものなら万死に値する行為なのだろう。しかも最後は「報道に携わる資格なし」ときた。朝日新聞に言わせると、新聞記者とはとにかく日本政府に反対し、支那や北朝鮮にこびへつらい、真実を伝えず嘘を垂れ流さなければならない存在らしい。まったく不幸な連中である。
■《天声人語批評》(12/05/23)
| ■《朝日新聞社 asahi.com 天声人語:12/05/23:より引用》
多弁なはずの森喜朗首相なのに、このところ口数が少なめだ。秘書官から「ペーパー以外は言わないでください」と厳命されているそうで、いくつかの会合のあいさつでも、ひたすら原稿を棒読みしている。 <中略> 政治家の有力な武器は、ことばである。ことばで国民の信頼をかちとり、ことばで政敵の説得に努めなければならない。かりに「誤解された」のなら、誤解させた政治家のことばの貧しさに、まず問題がある。ところが森内閣になってから、政府・与党の政治家のことばは一段と軽くなった。論理そっちのけで、ただ情緒に訴えようとする。果ては青木幹雄官房長官のように、ことばで語ること自体を拒む(「密室談合」の件)。 〈ことばもて、人は獣に優(まさ)る〉と昔、ペルシャの詩人は言った。〈……されど、正しく話さざれば、獣汝(なんじ)に優るべし〉 |
この天声人語の最後の部分って、きっと朝日新聞自身に言っているんだろうな。朝日新聞が正しく話した所など聞いたことがない。
まあ、森総理大臣もマスコミに揚げ足を取られるような発言をしたのはやはりまずかったと思う。内容は間違いではないが、一国の国政を預かる総理大臣としては、マスコミや国民に対して「人畜無害の善人」を装い、欺き油断させ、その間に重要法案をどんどん可決していくべきだろう。小渕前総理大臣が行ったように。
ASSAHI新聞は、政治家は「善人」では駄目だと考える。しかし、有権者やマスコミに対しては「善人」だと思わせなければならない。つまり、政治家は「偽善者」でなければならないのだ。そして有権者には、その「偽善」を見抜き、そしてそれを利用するくらいのしたたかさが必要なのではないか。(しまった。民主主義を擁護するような天声人語批評になった・・・)
■《天声人語批評》(12/05/21)
| ■《朝日新聞社 asahi.com 天声人語:12/05/21:より引用》
大阪の道頓堀川に架かる戎(えびす)橋は、いつも大勢の買い物客でにぎわっている。その橋で事件が起きたのは1995年10月のことだ。野宿をしていた男性が、橋から川に落ちて亡くなった。2人の若者が共謀し、無抵抗だったホームレスの男性を川に投げ込んだ。事件はそんなふうに伝えられ、2人の若者が逮捕された。 あれから4年半たった今年4月、そのうち1人の若者の無罪が確定した。もう1人の若者は傷害致死で去年、懲役4年の判決を受けた。驚かすつもりでホームレスの男性を橋の欄干に抱え上げたところ、おびえた男性がしがみついてきた。それを振り払ったはずみに川に落ちた。すべて1人でやったことだった。 かけがえのない命が奪われたという事実は変わらない。しかし、当初、センセーショナルに報道された事件は、裁判を通して大きく姿を変えた。有罪になった若者は、小さいころからいじめられていた。社会に居場所をみつけられないつらさやいらだちを、ホームレスの男性にぶつけてしまったのだ。 誤認逮捕された若者の方は、警察の取調室での体験を忘れられない、と話す。小さな部屋で4人の刑事に囲まれた。彼らは、2人でやったと決めてかかった。大声を出し、机をたたく。何を言っても信じてはもらえなかった。 折あしく、高校を卒業してからずっと勤めてきた会社を辞めて、失業中だった。担当していた機械整備の仕事が深夜や休日に集中していて、体がもたなくなったからだ。無職で、髪を染めている。そういう若者たちにそそぐ大人の視線は冷ややかだ。 2人はどちらも戎橋付近に群れていた「橋の子」の仲間。互いにあだ名で呼び合い、心に深く立ち入ったりはしなかった。罪を償って出所した若者と、無実での勾留(こうりゅう)が3年半に及んだ若者は、先日、久しぶりに会った。「ごめんな」「ええよ」といたわり合った。 |
おいおい、最近の朝日新聞は本当にどうかしてしまったんじゃないか。今日の天声人語の気の狂い様は普通じゃない。人一人殺しておいて「社会に居場所をみつけられないつらさやいらだちを、ぶつけてしまった」で済ましている。まあ、殺されたのがホームレスだったから別に文句はないが、これが善良な市民が殺されていても朝日新聞は同じように書くんだろうな、きっと。
社会に居場所を見つけることが出来なければ人を殺しても良いと朝日新聞は言う。このベクトルで行けば、神戸の酒鬼薔薇くんも幼女殺害の宮崎君もバスジャック犯人も「社会に居場所を見つけられない」からしかたがないというのか。おいおい、お前たちが異常犯罪者を量産しているからと言ってそこまで公言するか?電車の中で男性をハンマーで殴り殺そうとした17歳の少年の父親は、現役の朝日新聞社員だ。おそらく朝日新聞は異常犯罪を起こす子供を育てることを「社是」としているのだろう。狂った連中だ。
それと警察の誤認逮捕を批判しているが、逮捕した人間が100%有罪になる方が異常なんだよ。疑わしい人間を逮捕して調べるのが警察の仕事。それが本当かどうか検証するのが裁判所の仕事。朝日新聞がつまらないことで「誤認逮捕」だって批判するから警察が何事にも及び腰になる。疑わしい連中は警察官の権限ですぐに逮捕できるように運用を変えればいい。どんどんしょっ引けば、誤認逮捕は増えるがその分犯罪の摘発もいくらか増える。その方がよっぽど善良な国民にとっては有益になるよ。
21日のサンデーモーニングだったと思うが、ある教育評論家が、「人間の性格形成の一番重要な時期は、産まれてから3歳までの間です」と言っていた。そこで、サヨク系のコメンテーターは、口をそろえてその頃の社会情勢に原因を求めようとしていたが、この光景を見ていて「アホちゃうか!!」と突っ込みを入れてやりたくなった。17歳の少年が、産まれてから3歳くらいまでの時期に流行った風俗や世相を評していたが、お前ら子供を育てたことがないんだろう。3歳までの子供は世相や風俗の影響を受けることはほとんどない。例え保育所に預けられていたとしてもだ。3歳までの子供が影響を受けるもっとも大きいものは、言うまでもなくその両親であって社会ではない。犯罪を犯した子供がどうであったか、その時代背景がどうであったかを検証しても殆ど意味はない。検証するのであれば、犯罪者の両親を検証しろ。今17歳の子供の両親はだいたい45歳から50歳。学生運動が終焉を迎える直前に、その本領を発揮し大量殺人を繰り返していた頃の世代にぴったり一致する。
異常犯罪を犯している少年は「サヨクの子供たち」なのだ。
■《天声人語批評》(12/05/20)
| ■《朝日新聞社 asahi.com 天声人語:12/05/20:より引用》
十何年か前になるが、文部省の幹部たちと議論した。小、中学校での1学級の子ども数は、多くても差し支えないのか。少ない方がいいか。それがテーマだ。 こちらは「少ない方が」派である。そうであれば、子どもたち一人ひとりに目が届く。授業をどれだけ理解しているかが把握できる。いじめや悩みごとの相談にも、ゆっくりのれる。そんなふうに、予想される利点を並べた。対して文部省側は「多くても」派だった。しかし話を聞いても、なぜそうなのか理解できない。 たとえば「多ければ、子どもそれぞれが社会性を養える」と主張する。でも1人2人ならともかく、10人もいればりっぱな「社会」だろう。「少ないと野球チームが2つできず、学級内で試合ができない」という意見も出た。冗談だと思ったら、まじめなのである。人数が足りなければ、男女いっしょでも、別のクラスや学年との混成チームでもいいではないか。 きのう、文部省の調査研究協力者会議が「今後も40人学級のままでいい」との報告をまとめた。十何年前の文部省の姿勢と大差ない。理由をいくつか挙げているが、要するに「人数が少なければ学習効果が上がるという、はっきりした証拠はない」ということらしい。さて、人数が多いほど学習効果は上がるなどと、だれが証拠だてて語れるのだろう。 本当はお金が第一の理由のようだ。「30人学級」にすれば、先生をあと12万人増やさねばならない。そのためには年間1兆円かかるのだという。が、それでも国などが負担すればいいではないか。子ども一人ひとりと落ち着いて対話できる。教育上、そのことは欠かせまい。 教育勅語を引いたり、子どもに学校の便所掃除をと説いたり、森喜朗首相の教育談議はとかく精神論に傾く。「30人学級を実現する」と約束すれば、それ以上に受けると思うのだが。 |
朝日の記者は「10人もいればりっぱな「社会」だろう。」というが、本気でそんなことを思っているのだろうか。頭を患っているんじゃないのか。小学校時代を思い出すと、グループ学習などで5人程度の「班」を作ったものだ。つまり、一学級10人だと、これが二班しか作れない。班毎に研究成果を発表するといった授業も、二班程度では効果が薄れるということが、いくつもの研究結果から既に立証されている。朝日新聞の記者は、一度教育学部の講義を聴講してみてはどうだろう。
文部省の「学級崩壊」の調査結果から、人数の多い学級で崩壊が多く見られることや、また、ベテランの担任でも学級崩壊が起こっていることがわかった。確かにそうだろう。では、それに対して学級の人数を減らすと言うのはあからさまに「場当たり的な対処」ではないのか。このような「場当たり的な対処」というのは、朝日新聞様は一番お嫌いだったはずではなかっただろうか。
「人数が多いほど学習効果は上がるなどと、だれが証拠だてて語れるのだろう。」と朝日新聞は言うが、では「人数が少ないほど学習効果は上がる」ということを、朝日新聞は立証しているのだろうか。これほど文部省の姿勢を批判するのだからきっと検証データがそろっているのだろう。もったいぶらずに公表してほしいものだ。
人数が多いだの少ないだのと言うことは、まさに相対的なことであって、絶対的なものではない。個別指導という観点からなら一対一が良いに決まっているが、集団指導という観点からは人数が適度に多い方がいい。つまり、学級指導においてどの程度の人数が一番適切かと言うことが問われなければならないのである。しかるに、専門分野の研究者会議で40人学級程度が適切であると報告したのだ。これにはそれなりの根拠がある。
ちなみに、一学級の平均人数は現在小学校で27.2人、中学校で32.4人である。40人学級というのは文部省が定める上限であって、必ず一学級40人にしなければならないと言うわけではない。既に、現実は30人学級を実現しているのだ。これを30人を上限とすれば、平均の人数は20人程度まで落ち込んでしまうことが予想される。たとえば一学年65人いたとする。すると30人学級2つでは足りなくなるので、学級を三つにしなければならない。すると、一学級22人となってしまうということだ。
私が小学生の頃は45人学級が当たり前だった。それでも上手くやれていたのだから、今の40人学級で上手くできないわけがない。もし出来ないのであれば教師の質が下がっているのではないか。私が知っているだけでも、愚にもつかない教師は何人もいる。最近では、なかなか優秀な教師が育たないという。これには日教組の弊害が色濃くにじみ出ているのだ。
採用試験に合格した新米の教師は、すぐに学校に配属される。そして、その多くは最初から担任を任されるのである。そして、学級の担任をこなしながら、初任者研修に参加するなど、非常にハードな仕事をこなす。学校には普通、何人かの担任を持たない教師がいる。その学校内で適当な役職につき、何かと理由を付けて担任を持たないのだ。その担任を持たない教師はおしなべて日教組の幹部なのである。
このように、担任を持たない教師のしわ寄せが新任教師に重くのしかかる。しかも、担任を持つと、他のベテラン教諭から殆ど指導を受けなくなる。日教組の影響が強い学校ほどその傾向が強い。新任教師は学級という閉鎖された空間で、日教組の先輩からのみ情報を与えられ腐っていくのである。
今、本当に必要なものは、徹底的な日教組の駆逐である。連中は子供たちを洗脳し、組織的に凶悪犯罪に駆り立てている。まさに、日教組が牙をむいてきているのだ。
■《天声人語批評》(12/05/19)
| ■《朝日新聞社 asahi.com 天声人語:12/05/19:より引用》
やや旧聞に属するが、ゴールデンウイークの人出(警察庁まとめ)の全国10位は、本欄でも触れた「第1回東京ガーデニングショー」だった。計56万人、大変に混雑したようだ。 「お客さまの入り以上にうれしいことがありました」。催しを終えた事務局で、そんな話を聞かされた。1カ月の会期を通じて、老いも若きも女も男も、だれ1人として、1本の木も1枚の花びらも持ち去ったり傷めたりしなかった、そのことだという。お陰で樹木も草も花も、元気にふるさとに帰っていった。 教育に詳しいと自任する森喜朗首相は、道徳の荒廃を嘆き、教育勅語を語り、教育基本法の見直しを説いてやまない。ただ、花盗人なし、という右のような例を耳にすると、人びとにはまだまだ自律の精神、自浄の力が十分あるではないか、と思う。少なくとも、自分の言動をきちんと釈明できない政治家に、道徳をうんぬんしてもらいたくはない。 <中略> それもこれもボタンの掛け違い、つまり森氏を選んだ「密室の談合」に端を発している。掛け違いを直す早道は出発点に戻ること。自民党は改めて総裁選びからやり直してはどうだろう。 |
「自分の言動をきちんと釈明できない政治家に、道徳をうんぬんしてもらいたくはない」だそうだ。いやはや・・・・気を失いそうになった・・・。よくもまあ、朝日新聞が他人様に道徳云々が言えたものだ。厚顔無恥で恥知らずな連中め。
平気で虚報・誤報を垂れ流す。事の本質をねじ曲げて伝える。記事を捏造する。つまり、朝日新聞はうそつきの集まりである。そんな連中に果たして道徳を説く資格があるとでも思っているのだろうか。以前、国会の投手討論会で民主党の鳩山代表が「うそつきは警察の始まり」といったが、「うそつきは朝日新聞の始まり」というのが正しいようだ。子供がうそをついたら「うそつきは朝日新聞の始まりよ。うそばかりついていては朝日新聞のような大人になってしまうよ」と躾をしよう。朝日新聞はどの角度から見ても、理想的な反面教師足り得る。
「自民党は改めて総裁選びからやり直してはどうだろう。」と言っているが、では、総裁選をきちんと行って選出されたなら朝日新聞は納得するのだろうか。先の総裁選の時も「茶番」と表していたのはどこの新聞社だったかな?朝日新聞様はもう、自分がおっしゃったことをお忘れになられたのだろうか。
朝日新聞がこの美しい日本に存在すること自体がボタンの掛け違いである。過ちを改めることは恥かしいことではない。朝日新聞が自らの過ちを認めてすぐに廃刊するのであれば、国民から賞賛の拍手が送られるであろう。
■《天声人語批評》(12/05/18)
| ■《朝日新聞社 asahi.com 天声人語:12/05/18:より引用》
森喜朗首相が「神の国」発言について、国会で「陳謝」した。「天皇中心」という表現の意味はこれこれ。「神の国」の意味はこれこれ。だから「決して天皇が神であるという趣旨で発言したものではない」という結論を導きだしていた。 台本を書いたのが森首相本人か、ほかの人かは知らないが、なかなかの知恵者だと思う。問題の発言は、「天皇を中心とする神の国」である。長くもないこのことばを、わざわざ前半と後半の二つに分けて説明したところに、苦心の跡が見えた。 たとえば「五十歩百歩」ということばがある。これを分解して「五十歩」は人が50回歩むこと、「百歩」は100回歩むこと、などといくら述べ立てても、「五十歩百歩」の意味を説明したことにはならない。首相の弁舌も、これと同じではないか。 「天皇中心」も「神の国」も、苦しくはあるけれど、説明らしきものにはなっていた。しかし、その説明をどうつなげても「天皇中心」「神の国」にしかならない。「天皇を中心とする神の国」という一連のことばからは、首相の説明とは異なる、多くの人たちが危険な発想を感じ取った意味合いが浮かび上がるのだ。 首相は「陳謝」したという。しかし、テレビで見るその態度、物腰は、陳謝ということば本来の意味とはかけ離れた印象だった。そのはずである。「誤解を受けている面についてはおわびするが、発言は取り消さない」のだから。自分の言い分は正しい、誤解したのはそちらの方だ、というのでは陳謝らしい陳謝になるはずがない。 この姿勢は、沖縄での「陳謝」でも同じだった。自民党幹事長時代の「沖縄の教組と新聞は共産党に支配されている」という発言について「迷惑をかけたのなら、おわびしたい」と述べたが、取り消しはしなかった。 問題発言とうわべの陳謝。今後も繰り返されそうな予感がする。 |
「珊瑚礁事件」の時も朝日新聞はうわべだけ陳謝していたね。それ以降も記事の捏造や虚報は後を絶たなかったから、朝日新聞が全く反省していないことがよくわかる。
ところで、森首相が幹事長時代に発言した「沖縄の教組と新聞は共産党に支配されている」という発言だが、これについてはASSAHI新聞も問題発言だと考える。なぜなら、共産党に支配されているのは沖縄の教組だけでははい。この発言では、共産党が支配しているのは沖縄の教組だけであるという誤解を与えかねないからだ。
朝日新聞は「天皇中心の神の国」がよほど気に入らないんだろうね。まあ、仕方がないか。あんな連中だし。そういえば、森首相の「天皇中心の神の国」発言に関して、民主党のホームページでアンケートを行っていた。日本の首相の発言としてふさわしいかどうかという設問だったのだが、この結果が笑える。なんと「ふさわしい」と答えた人が圧倒的に多かったのだ。最後に確認したときには「ふさわしい:1600」「ふさわしくない:800」くらいだった。すると民主党はこのアンケートを突然中止してしまい、その結果も抹殺してしまった。まあ、民主党のホームページ上だから何やってもいいけど、民主党も所詮そんなもの。民主主義が大事と言っても、自分たちの主張する意見が主流にならないと判断したらそのアンケートも闇に葬る。民主主義を守るためには情報操作でも何でも行うという所など、朝日新聞を彷彿とさせるね。鳩山さんには少し期待していたんだけど、ちょっと残念だ。
石原都知事の三国人発言に対する国民の反応や、上記の民主党アンケートの結果を見ると、世の中が少しずつ良い方向に変わっていっているのかなあと思う。しかし、朝日新聞や日教組が全盛を誇っていた頃の負の遺産が、いま少年犯罪として顕在化してきているのも事実である。しかも、社会の正常化を危惧しているアカい自称進歩的な学者どもは、教科書に捏造した戦争犯罪を記載し、自虐教育によって巻き返しをねらっている。我々は、このような亡国の動きに対して常に警戒しなければならない。
■《天声人語批評》(12/05/17)
| ■《朝日新聞社 asahi.com 天声人語:12/05/17:より引用》
森喜朗首相は、生まれる時代を間違えたのかもしれない。もう半世紀ほど早く生まれていれば、ご本人にとってはもっと住みやすい世の中だったのではないか。「教育勅語」から「神の国」に至る最近の発言で、そんなことを思った。 <中略> 森首相がしきりに口にする教育勅語も、旧憲法の下だから成立した。森首相は「教育勅語にはいいところもあった。親孝行しましょうとか、兄弟仲良くとか」と語った。しかし、それならば勅語を持ち出すまでもないこと。実は、勅語でもっとも重視されたのは、日本の教育は皇室を中心とする日本独特の「国体」に基礎をおくとした序文なのだった(佐藤秀夫『学校ことはじめ事典』)。 「神の国」発言の際、森首相は「昭和の日」に触れ、「今の天皇ご在位10年、先帝陛下60年のお祝いだとか、ややもすると政府側が若干及び腰になるようなことをしっかり前面に出し……」などと述べた。「昭和の日」を提案した側は、「昭和天皇の日」と解釈されないように注意を払ってきた。が、森首相は前面に出した。昭和の日と昭和天皇を、結びつけた。 勅語から「神の国」まで、発言は首尾一貫する。いま、この人が首相の座にあるのは、摩訶(まか)不思議だ。 |
こっちは、朝日新聞が840万部も発行していると言うことの方が摩訶不思議だよ。読んでる人間はよほど判断力のないおバカな連中ばかりなんだろう。この天声人語では「(「侵スヘカラス」は「侵すべからず」と読む)。」とわざわざ注意書きまである。この程度の読解力も朝日新聞の読者にはないと言うことだ。
森首相は「教育勅語にはいいところもあった」と言い、それに朝日新聞はかみついているが、森首相も朝日新聞も教育勅語をじっくり読んだことが果たしてあるのだろうか。少なくとも、朝日新聞の記者は一切読んでいないだろうし、森首相も読んでいるかどうか疑わしい。なぜなら、「教育勅語にはいいところもあった」ではなく、「教育勅語にはいいところしかない」というのが偽らざる真実だからだ。
教育勅語の原文と訳文を載せておくのでじっくり読んでほしいのだが、この教育勅語のどこが良くないのか、是非とも朝日新聞様に、私の貧弱な脳味噌でも理解できるように説明してほしい。私が私の感覚で読み解くと、教育勅語には非の打ち所がないように思えるのだがいかがなものか。
「「昭和の日」を提案した側は、「昭和天皇の日」と解釈されないように注意を払ってきた。が、森首相は前面に出した。昭和の日と昭和天皇を、結びつけた。」と言っているが、これも不思議な話である。昭和の時代と先帝陛下を切り離して考えることができるのだろうか。
第一、「昭和」という時代は、「昭和天皇陛下の御世」と言う意味である。先帝陛下がご即位されてからお隠れになられるまでの期間を「昭和」を呼称しているのにも関わらず、「昭和の日」と先帝陛下を切り離して考える。このようなことは重度の精神分裂症か多重人格を煩っているとしか思えない。一度医師の診断を受けてみてはどうか。
また、「森喜朗首相は、生まれる時代を間違えたのかもしれない」と言うが、私に言わせれば「朝日新聞は、設立された国を間違えたのかもしれない」だ。支那か北朝鮮で設立しておけば、朝日新聞の記者諸氏にはよほど居心地が良かった事だろう。社会の右傾化を心配する必要もない。なぜならそのような不穏分子はすぐに粛正されて社会から永久に消え去るからだ。
「文化大革命礼賛」から「南京大虐殺捏造」まで、朝日新聞の主張は一貫する。この新聞社が日本に存在するのは摩訶不思議だ。
■《天声人語批評》(12/05/16)
| ■《朝日新聞社 asahi.com 天声人語:12/05/16:より引用》
故小渕恵三前首相の「内閣・自民党合同葬」の日取りが、6月8日に決まった。予想される総選挙の公示日、6月13日のすぐ前になったのは、「会場の都合がつかなかったため」と説明された。 <中略> 1980年の衆参同日選挙で、自民党は圧勝した。選挙戦の大詰め、病床にあった当時の大平正芳首相が急死したからである。世論調査を見ても、死をはさんで、必ずしも有利ではなかった自民党の支持率は上向きに転じた。もちろん、故人を悼む気持ちと政治の選択は、画然と分けられなければならない。しかし、かなりの有権者が情に棹(さお)さし、流されたのだった。 日本の選挙では、「弔い合戦」は多くの場合、有利である。亡くなって間もない人を批判するのは、だれもがためらう。攻撃すれば、えてして攻撃した側が苦境に陥る。 <中略> 情に流されるのか、理を選ぶのか。それが問われる総選挙にもなる。 |
なんだかねー、どうして朝日新聞ってこういう見方しかできないんだろう。最後は「情に流されるのか、理を選ぶのか。それが問われる総選挙にもなる。」だそうだ。つまり、自民党に投票するのは「情に流された」だけで判断力のない人間、そして、野党に投票するのは「理を選ぶ」事のできる判断力のある人間、と言っているようなものだ。社会党の浅沼委員長が刺し殺されたときに、一番情に訴えていたのはどこの誰だったかね。
「日本の選挙では、「弔い合戦」は多くの場合、有利である。亡くなって間もない人を批判するのは、だれもがためらう。攻撃すれば、えてして攻撃した側が苦境に陥る。」と断っておいてから小渕前首相や自民党を攻撃する。全く姑息な連中だ。攻撃したいのだったらそんな前置きをしないで、直接正々堂々と攻撃すればいいではないか。
有権者が情に流されようと、流されまいと、それを最終的に決めるのは有権者個人であって朝日新聞ではない。それが民主主義であり、民主主義の限界でもある。
朝日新聞やサヨクの連中は、「民主主義」が絶対であるかのように言うが、現在の「西洋型民主主義」が実際に機能をはじめて、まだ200年も経っていない。それに比べ人類の文明史は5000年にも及ぶ。朝日新聞が主張するような「直接民主主義」は今から2000年前の地中海で実現されていたが、その民主主義の時代はすぐに終わり、専制君主制の時代になったという経緯もある。今の民主主義の世の中が終焉を迎える可能性もある。「民主主義」は絶対ではないのだ。
ASSAHI新聞は「民主主義」や「人権」といった口当たりのいい言葉に嫌悪感を覚える。少なくとも、その時々の民衆の「雰囲気」によって、国家の行く末が決められてしまうような政治形態が良いとは思えない。
■《天声人語批評》(12/05/15)
| ■《朝日新聞社 asahi.com 天声人語:12/05/15:より引用》
43日間におよぶ闘病もむなしく、小渕恵三前首相が死去した。ごめい福を祈る。 在任1年8カ月余り。就任当初は軽侮を込めて「凡人」「冷めたピザ」「鈍牛」「ボキャ貧」などと呼ばれた。 <中略> しかし、鮮烈さを際立たせるのは、小渕氏ほど短期間にいくつもの「問題法案」を成立させた首相はいなかった、という点にある。国旗・国歌法、通信傍受法(盗聴法)、ガイドライン関連法、国民総背番号制に道を開きかねぬ住民基本台帳法改正。そして憲法調査会の発足。 どれも国民生活に深く関係し、内閣の浮沈にかかわることがらだ。それを結果的には、「人柄の小渕」を旗印に、国民にさしたる警戒心を抱かせることなく、やすやすと処理してみせた。一方で、外相時代に手がけた対人地雷全面禁止条約の批准承認があり、沖縄でのサミット開催決定がある。従来のハトかタカかといった基準では、必ずしも律しきれない。 新刊の佐野眞一著『凡宰伝』(文芸春秋)は、インタビューを核に、小渕氏を鋭く解析した評伝である。そのなかで前首相は言う。「右とか左とかハトとかタカとかいう間尺が僕にはないんです。批判する人はみんなそうやって自分の物差しで考えている」。では、前首相の政治家としての理念は何か。インタビューを重ねたが答えはほとんど得られなかった、と佐野さんは書く。 「冷めたピザ」とからかわれたとき、小渕氏は記者たちにみずから宅配ピザをふるまった。自分を戯画化して平然としていた。笑みを浮かべつつ問題法案を片づけ、最終責任をとらないまま去った。 |
いやはや、朝日新聞はこの期に及んでも、まだ「国旗・国歌法」を「問題法案」などと呼ぶんだね。国民の70%が歓迎しているという「事実」をよほど認めることができないらしい。また、「国民にさしたる警戒心を抱かせることなく、やすやすと処理してみせた。」の下りなど、「バカな国民は、小渕首相の人柄にだまされて警戒心を持たなかった」と言っているようなものだ。ASSAHI新聞が国民をバカにするのならともかく、日頃は国民の味方を気取り、国民の「良識」をバックに活動されている天下の朝日新聞様が国民をバカにされるとは、よほど取り乱しているのだろう。とても朝日新聞様の弁とは思えない。
「従来のハトかタカかといった基準では、必ずしも律しきれない。」という。そりゃそうだろう。「ハト」とか「タカ」とか未だに言っているのは朝日新聞だけだよ。いつまでも、そんな二元的な思考のままでこの現代社会を乗り切っていけるとでも思っているのだろうか。そんなことだから発行部数を落とすんだ。
「前首相の政治家としての理念は何か。インタビューを重ねたが答えはほとんど得られなかった、と佐野さんは書く。 」というところは、「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志をしらん」というやつだね。おバカなサヨクや朝日新聞には、頭の良い人間の考えることは理解できないと言うこと。まあ、政治の理念なんてことさら声に出して言うほどのものじゃないんじゃないかな。たとえば、政治家にとって絶対にはずせない理念というものはある。それが「国家の存続」と「国民の安全」(平和ではない)だ。
「国家の存続」の為には帰属意識が必要である。そのための「国旗・国歌法」であり、「国民の安全」の為の「ガイドライン関連法」と「通信傍受法」だ。小渕前首相は、そのことを誠実に希求していた。また、小渕前首相が招集したいくつもの研究部会をみると、その理念というものが自ずと見えてくるのではないだろうか。
まあ、硬直しきった朝日新聞の頭ではこれ以上の理解を期待するのは無理というものか。
■《天声人語批評》(12/05/12)
| ■《朝日新聞社 asahi.com 天声人語:12/05/12:より引用》
孝行息子が酒のわき出る泉を見つけ、酒好きの父親にのませるのが「養老の滝」伝説。事実は伝説より、でアメリカでは、本当に川をウイスキーが流れた。 <中略> 日本の言い伝えでも、「養老の滝」はめでたしめでたしだけれど、酒の泉をめぐって命を失った話もある。 ある僧が山中で道に迷い、泉を見つけた。飲もうとすると、水がなにやら黄ばんでいる。口をつけると酒だった。そこへ村人たちがやってくる。泉の秘密を知った者は殺されるのだ。僧は、絶対に口外しないと約束し、かろうじて見逃してもらう。 しかし無事に帰ってくれば気がゆるみ、黙っていることができない。ついしゃべってしまい、僧の案内で一同、泉へ行こうということになる。ところが、出かけた連中は待てど暮らせど戻ってこないのだった。 『今昔物語』の一編。〈信義なく口が軽いのは絶対にいけない〉と最後に教訓が添えてある。 |
いやはや、天声人語にしては非常に立派な教訓を残してくれた。「信義なく口が軽いのは絶対にいけない」まったくその通りである。なんといっても朝日新聞は「信義」の固まりのような新聞社だ。
チベットでどんなに非人道的なことが行われていても無視する。政治家が南京事件や慰安婦問題に批判的な意見を述べると、事の真意がどうであれ「妄言」として支那様朝鮮様にご注進申し上げる。日本が国家として行ういかなる行動にも反対し、民意を踏みにじると言い、北京政府が行ういかなる行動も批判せず、普通選挙など一度も行われたことのない支那を民主主義の素晴らしい国だと宣伝する。「朝日新聞は支那の奴隷である」という信義にかけては
、一点の曇りもないほど立派で強固である。
しかし、これだけの信義は持ち合わせていても口の方は軽いようである。宮内庁からの発表がないにも関わらず、東宮妃殿下の慶事についてスクープとして報道したのがよい例だ。これからは天声人語の通り、「口が軽いのは絶対にいけない」ということを身をもって証明して欲しいものである。
■《天声人語批評》(12/05/11)
| ■《朝日新聞社 asahi.com 天声人語:12/05/11:より引用》
シドニー五輪の選考に漏れた千葉すず選手の代理人が、日本水泳連盟に「なぜか」と質問状を送った。水連は近く「選考は公正。しかし、落選理由は従来、本人にも教えていない」といった回答書を出すようだ。 公正といいながら、落選の理由は明かさない。これでは、公正かどうか判断のしようがない。明かさないのは「選手の将来にマイナスだから」(水連幹部)だそうだ。これもわけがわからない。理由も知らされずに落選させられることの方が、よほどマイナスだろうに。 千葉選手の言動は、周知のようにきわめて個性的だ。奔放すぎると顔をしかめる向きもある。選考を前に、水連の古橋広之進会長は「水泳は個人競技でなく団体競技だ」と語った。どうもこのあたりの考え方が、選考に大いなる影響を及ぼした感がある。遠い昔のことだけれど、古橋会長はこんな文章を書いた。 <中略> そして〈今後は立派な社会人として永久に働きつゞけるのみが、残された大きな使命です。情けないことになってしまいました。私を責めて下さい〉と結ぶ。気持ちはいまも、おそらく同じだろう。とすれば、こうした時代感覚と千葉選手の振る舞いは相入れるはずがない。ともかく選考基準に、つぎの大切な一項を明記するべきだった。 「滅私奉公」たるべし。 |
「公正といいながら、落選の理由は明かさない。これでは、公正かどうか判断のしようがない。」と言うが、では朝日新聞自身は「公正」といいながら、支那共産党と朝日新聞に都合の悪い記事は載せない、敵対する人物の発言はその一部を切り取り真意をねじ曲げて報道する、ニュースソースは明かさない、平気で事件を捏造する、憶測で記事を書く・・・・書き連ねるときりがないくらい「不公正」な事が次から次へとでてくる。
しかし、朝日新聞は異常なくらい千葉すずに肩入れするね。なぜだろう?水泳に興味がないのでよくわからないが、朝日の記事から推測するに、千葉すずが個人主義的で、かつ、水連が保守的だからか?
「水連の古橋広之進会長は「水泳は個人競技でなく団体競技だ」と語った。どうもこのあたりの考え方が、選考に大いなる影響を及ぼした感がある」
とあるように、朝日新聞の推測ではそうなるらしい。しかし、水連の古橋会長が言うように「水泳は団体競技」であり、そのことが選考に影響を及ぼしたとしてもまったく問題ないのではないか。
オリンピックは周知の通りナショナリズムの祭典である。過去、このナショナリズムの祭典をもっとも利用したのがナチスだったが、このあたりが朝日新聞様のお気に召さないのかも知れない。ちなみにオリンピックの風物詩になっている「聖火リレー」は、最初に行われたのがベルリンオリンピックで、考案したのはかのヒトラーである。このナショナリズムの祭典に出場するからには、日本のナショナリズムを背負うことのできる選手でなければならないのではないだろうか。朝日新聞の記事を信用すると、「千葉すずは、個性的であって、ナショナリズムを背負うことができないから選考からはずれた」と言っているように受け取れる。
個人の技量を比べるだけならオリンピックでなくてもできる話だ。世界的な水泳大会は毎年いくつも開かれている。しかも、球技などとは違って、そのときの記録が残るので、違う大会にでている選手とも優劣を判断することができる(100%ではないが)。千葉すずがその力を発揮することができるのはオリンピックだけではないはずだ。千葉すずの今後に期待したい。
天声人語の最後は「滅私奉公たるべし」で締めくくられている。これが嫌みではなく本気だったら素晴らしいんだけど、朝日新聞のことだから嫌みなんだろう。日本人は「和をもって尊しとする」民族である。
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